千里がミズキの逗留している客間の前まで来ると、割れた水差しは既に片付けられ、跡形もなくなっていた。
 礼儀知らずとは思ったが、千里は少しだけふすまを開け、中に入った。次の間を抜け、中を伺うと、ミズキは眠っているのか、やすらかそうな寝息が聞こえてきた。やはり消耗していたのだろう。再びこっそりと外に出ると、ぴったりとふすまを閉めた。

 眠っていたミズキは、かすかな気配に耳をそばだてた。息を潜めて、やりすごすと、やおら起き上がり、部屋を出た。見ると、ぱたぱたと足音を立てって駆けていく娘の姿があった。下働きらしい、揃いの水干を着、髪を高く結った少女。先ほど、水入れを割った娘と、恐らくは同じ…。

 ミズキは布団に掛けてあった上掛けを羽織り、少女の跡を気づかれないよう追いかける事にした。


オトナになりたい


 自覚してしまった思いを、留める事ができない。

 どうして自分は若の部屋まで来てしまったんだろう。千里は思った。いつも、習慣で遊びに来ていた時とはまた別の、甘いようでいて苦いような気持ちが胸に広がる。

 若の事が好きだ、と、自覚してしまったら、何だかむしょうに顔が見たくなって、気がついたらここに立っていた。扉を叩くと、ややあって、若が顔を出した。

「…?千里、よかった、探していたんだ、…話も、あったし」

 微笑む顔はいつもの若で、でも、いつもと違うのは千里の胸の内側の事。鼓動が跳ね上がり。耳がキーンとする。言葉が出ない。

 答えない千里を、若は促すように部屋へ招き、部屋の一角にしつらえられた小さな炊事場で湯をわかすため、水をいれたやかんを火にかけた。

 ソファに座らされて、千里はしばし呆然としていた。言いたかったのに、顔を見たら言葉が出てこなくなってしまった。

(あの女の子のこと)
(自分は若が大好きだということ)

 頭の中で、言葉だけがぐるぐるまわる。

 若から手渡された紅茶の入ったカップが、手を温める。すぐ横に座った若を、まっすぐ見ることができなかった。

 


いったいどうした事だろうか。

 若は戸惑っていた。扉を開けたそこに立っていたのは、確かに千里のはずなのに、そこにいる少女のはかなく消え入りそうなこの表情はどうだろう。いつから千里はこんな表情をするようになったのか。誤解をまずは解かなくては、そう思っていたのに、しばし、言葉を失った。

「…?千里、よかった、探していたんだ、…話も、あったし」

 かろうじて言葉をひねりだし、千里を部屋に招き入れた。

 いつも、明るくくるくると表情を変える千里とは裏腹に、憂いを含んだその顔は、とても子供とは思えず。茶を入れるため、炊事場に立ち、千里の方を盗み見る。
 いったいどうしたんだ、俺は。我知らず赤らめた顔に戸惑う。千里の事は、好きだと思う。だが、こんな衝動を感じた事はかつてなかった。
 跳ね上がる鼓動を、手のひらに感じながら、黙って湯のわく音を聞く。

 紅茶を注ぎ、千里に手渡し、隣に座ると、横にいる娘に自分の鼓動の音が聞こえるのではないかという不安がよぎる。やましい気持ちは何もない、何も…と、必死で自分に言い聞かせた。

 並んで座った二人は、しばし無言で、紅茶の湯気だけがほわほわと辺りを漂っていた。


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