湯屋『備前屋』(3)

 湯屋『備前屋』は、高い塔のような造りの『油屋』とは異なり、大小いくつかの棟を回廊で繋いだ形にとりとめもなく広がっている。増築の結果か、果たしてわざとなのか、複雑な造りで、初めて来た者であれば、まず迷う事間違いなしの、迷宮のような造りであった。そして、一部突出して、時計塔だけがそそり立っていた。一定の刻限で鳴るそれは、遊女達のつとめ時間を区切る役目も持っていた。
 医師であるカズラギのいる部屋は、最も大きく、中央に位置する建物にあったが、はずれにあり、回廊の突き当たりである為か、訪ねる者も少ない。病人、怪我人が出た際は、狭く雑然とした診察室での治療ではなく、多くは往診ですませていた。

 けたたましく、電話の呼び出し音が鳴った。

 診察室で医術書をひもとき、釜爺の話などカズラギとしていたハクと坊であったが、電話にさえぎられてしまった。カズラギが懐から手のひらに載るほどの電話機を取りだす。
「はァ?!…ああ、うん。何だって?…、ああ、ったく、これだから。…ああ、わかった、わかった。スグに行くから。そう簡単に死にゃしねェ。おとなしくまっとれ。」

 カズラギの声から察するに、往診の依頼のようだった。
 再び懐に電話機をしまうと、黒い大きな鞄を取り出し、中身を点検しながらカズラギが言った。

「わしはこれから客間の方へ行ってくる。…まあ、この部屋に来るもんはいないだろうが、くれぐれもこっから出るんじゃねえぞ。」特にハクに向けて言い放つような口調だった。
「わかりました。ここから出ません。」
 ハクとカズラギの視線がぶつかる。カズラギが口の端を歪めて笑う。
「くえんやつだな、お前さんは。」
「何の事でしょう?」ハクは表情を崩さない。
「…、おっと、急がにゃならんからな。わしは言ったぞ。ここから出るなと。」
 念を押すように言うと、カズラギは慌てて出て行った。

 足音が遠のいていく。
「ねえ。」坊が言った。
「行くんでしょう?僕も行くからね。」
「ダメだ。」ためらいなくハクが突き放す。
「どうして!?」
「千尋をここに一人で残しておくわけにはゆかない。」
「…でも。」
「千尋を守ると、言い切ったのは坊だ。」
 そう言われると坊も何も言えない。黙って言う事を聞くしかできなかった。…が。
「解った。僕はセンとここに残る。…二人きりで。」
 あからさまに含むところのある口ぶりだった。
 一瞬、ハクの表情が崩れた。糸口さへ掴めば、あとは。
「カズラギさんもいつ戻ってくるかわかんないもんね。センはよく眠ってるし。なんて言うの?夜這い?にはもってこいだよね。」
 生意気にも千尋を人質にとっているつもりらしい。ムキになって使い慣れない言葉を使おうとしているのが妙におかしくて、ハクは嫉妬というよりも、可笑しくなってしまった。
「本気にしてないな。僕だって男なんだぞ。」
 ダメ押しだった。必死で笑いをかみ殺しながら、坊の頭をやさしく撫でる。
「そうだな。坊は男の子だものな。」
「子はいらないよ。」
「わかったわかった。」
 しゃがみこんで視線を坊のところまで合わせる。
「では、同じ男として、坊に頼もう。」
 笑顔は消え、真剣な眼差しで諭すようにハクが言う。
「千尋を…頼む。私はヌシに会って、必ず湯婆々の体を取り戻す。私も坊を信じる。坊も私を信じてくれ。」いつもとは違う。真剣な口ぶりに、坊も背筋を伸ばす。
「でも、僕もヌシの処に行きたいよ。」先ほどまでの、生意気な少年ではない。幼子に戻って涙目で坊が拗ねる。父親を慕って…などと簡単には言えない。もっと複雑な感情が坊の中にうずまいているに違いなかった。ハクにも、そんな坊の気持ちがわからないのではない。
「…頼む。」しぼりだすような声だった。ハクにとって、自分自身が傷つくよりも、千尋の身にふりかかる災厄の方がより大きな痛みをともなうのだと、気づいて坊がはっとなる。元々、千尋の同行を促したのが自分自身であった事に、坊は気づいた。
「…わかった。センと一緒にここにいる。」決して本意では無い。だが、これ以上わがままを通す事はできなかった。

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