宵にはかなき辻が花

 その女を哀れと思うのは、人によるのかもしれない。

 山奥の豪族の娘に縁談が舞い降りた。家格こそ低いものの、裕福な家に生まれた娘は都へ行く事をかねてから願っており、そんな娘にとって、零落したとはいえ名家の御曹司との婚姻はまさに願ってもない事。ふたつ返事で承諾し、雪深い山奥から、雪解けと共に都へ行く事が決まり、毎日娘は、はるか都で自分を待つ貴公子に思いをはせた。物語に出てくる光る君や、中将を思うように、焦がれた。
 しかし、その年にかぎり、雪はなかなか降りやまず、しびれを切らした娘は雪深い山を越えて行く事を望んだ。…妖の、住まう山へ。雪中行軍は難航し、雪崩に見まわれた娘の一行はちりぢりとなり、難を逃れた娘は、一人の猟師に救われ、山奥の一軒屋、老夫婦の住まう家へと連れていかれた。冬山の一軒屋の事、老夫婦は娘をもてなす為、以前より飼っていたなまずをさばく事を考えた。
 とはいっても、永年飼っていた生き物、簡単には息の根を止められない。
「かわいそうだが…。」
「いや、他に方法が。」
 問答する老夫婦の会話に聞き耳をたてていた娘は、思い違いをしてしまった。
 
 ここが妖の住まいであり、今まさに自分の命が危ういと。

 共と離れ、一人ぼっちになった娘の不安を思えば、同情の余地が全くないとはいいきれない。…だがしかし、娘は、恩人のはずの老夫婦の、命を、奪った。
 血まみれの包丁を手に、半狂乱で家を飛び出し、山を流離う。

 既にこの身は、いや、何としても都へ、一念が、娘の命を再び猟師の元へ導いた。ああ、これで、助かった。…だが、猟師こそが妖、山に棲む鬼であり、情けをかけたが、愚かな娘よ。と、振り向いたその頭には、まぎれもなく、二本のツノ。

 悲鳴をあげて、娘が逃げる。
 だが、鬼は娘の手を取った。
 何を逃げるか、我らは同じ。

 娘の頭にも、既にツノが生えていた。

 いつからだろう、両親に無理を言って、雪中行軍、自然をないがしろにした故か。親切な老夫婦を殺めた咎か、

 …それとも、心あらぬ恋に焦がれた故なのか。

 以来、娘は泣きながら、髪をくしけずる。急がねば春になる、都のあの方の元へと。ああ…ツノが…消えぬ。と。


 若者が語った、女の素性は、あまりにも哀しく、千尋は答える事ができなかった。
「ここは、そうした、罪を負った者が多くいる。浄化される事なく、未来永劫、囚われる。地獄とは、ここを言うのかもしれんな。」
 坊が何か言いたそうにしていたが、若者は続けた。
「人間とは、本当に愚かな生き物だ。会った事もない相手に焦がれ、その身を地獄に落とす。…もっとも、そうした女達が、何故ああも美しいのか、私にはわからぬが。」
 真実理解できない。といった顔で若者が言う。
「多分、その気持ちだけが、この人を支えているんだと…思います。会った事が無くても、恋しいという気持ちだけで、会いたいって気持ちが、『生きていたい』っていう力に変わって、…私も、よく、わからないけど。」
 途切れ途切れに、でも、千尋は思った事をぽつりぽつりと言ってみた。若者はまたしても理解できないといった顔をして、尋ねた。
「うぬもそうか?恋しい者会いたさゆえに、生きていると?」
 突然の問いに、千尋が考え込む。
「わからぬか。ではそれがしと同じじゃな。」
 悪い人(人なのかどうか千尋にはわからなかったが)では無い。と、千尋は思った。もっとも、さっきから剣呑な視線でねめつけるているハクには、そうは感じられなかっただろうが。

 大門の前にたどり着くと、途端に日がかげる。空に暮色のカーテンがかかっていくと、大きな軋む音をたて、大門が開き、道の両側にある灯篭に一斉に火がともった。運河の川縁にも、明かりが入り、遠くから船がやって来るのが見える。既に帰り道は無い。

 宵に燈る明かりを従え、一行は『備前屋』に足を踏み入れた。

INDEX>>
TOP>>

壁紙提供:幻影素材工房様