カラの王国(1)

 行灯の薄明かりが障子を照らし、二人の影を浮かびあがらせる。屏風には着物が無造作にかけられ、さらに影を深くしている。寝乱れた夜具の上で、白い肌の女の膝に頭をのせた色の黒い男が煙管をふかしている。男は女物の襦袢をひっかけるようにして着ている。痩せて、おち窪んだ瞳の男は女の膝でまどろみ、白い肌の女の瞳はうつろで、何の光も映してはいなかった。それでも、その手は男の長い髪を撫でている。

「そろそろだな…。」

 男はつぶやくと、上体を起こし、煙草盆に煙管を置くと、女に向き直った。右手であごをしゃくりあげ、自分の方を向かせる。それでも、女の表情は変わらず、ガラス玉のような瞳は男の姿すら映しているのかあやしかった。
 男はそうした、女の反応の無さに、自嘲気味に微笑み、そのまま、口付けた。

 長い口付けの後、男の唇が女の白い肌を這っても、女は一言も声をもらさない。人形のように、されるまま、うつろな瞳は彼方を見つめていた。夜具の滑るような音と、男の息使いだけが、わだかまった天井の闇に吸いこまれていく。

「渡さない。…それが誰であっても。」

 事の後、寝息をたてている女をいとおしく見つめ、男は瞳を光らせた。


 ヨノハテは大きな駅だった。

 無人の改札を抜けると、天井の高いエントランスで、ステンドグラスからやわらかな光が差しこんでいた。どこか廃墟を思わせるそこを抜けると、駅前の広場には噴水とオベリスクがあり、異国に迷い込んだような錯覚を受けた。霧がかかり、広場の先の大通りは、煙ってしまって先が見えない。ソフトフォーカスのかかってしまった視界をきょろきょろと探り、千尋はため息をついた。
「これからどう進んだらいいのかな?」
 銭婆からもらった書付と、地図を取り出し、ハクは周囲を見回している。
「備前屋は…そう、この大通りの先、運河を越えた向こうにあるようだ。ただ…、日の出ているうちは門に閉ざされて、中には入れないようだ。さて…。」
「とにかく進もうよ。でないと何も始まらないよ。」
 言ったのは坊だ。ハクとしては何かあった際の退路を確保しておきたかった。最悪、千尋だけでも逃がす事ができるように。だが、列車は既に消え去り、駅は静寂につつまれている。戻ることができない以上、進むしかない。三人は駅前の広場を抜け、大通りを歩き始めた。
 通り沿いは閑散として、何も無い。だがそれも。黄昏を過ぎれば別世界になるのだろう。千尋は、初めて不思議の町にたどり着いた時の事を思い出していた。漠然とした不安と、それに気づかない両親。だが、今日は違うのだ。ハクと並んで歩く。いつもの歩調はもう少し速いのだろう、千尋の歩く速度にあわせてくれているのがわかって、それが千尋はうれしかった。
 運河にかかる橋の向こうに、大きな門が見えた。「備前屋」と書かれた門は閉ざされ、周囲はぴっちりと塀と堀に囲まれ、一周してみないとわからないが、出入りできるのはそこだけのようだった。
「どこかで日暮れを待つしかないようだな。」ハクが言うと、橋の上から運河を見つめていた坊が声をあげた。
「ねえ、あそこ、誰かいるよ。」
 見ると、運河の川縁で、女の人が一人、川面を覗き込み、髪をすきながら歌を歌っていた。
「声をかけてみようか。」坊は下に降りる階段を指差している。
「何があるかわからない。うかつな行動はとるべきでは無いと思うが…。」
「でも、このままここでぼーっと立っているわけにもいかないでしょう?」
 結局、三人は橋から川岸のところまで降りていった。
 声が近くなってくる。どうやら三人には気づいていないようだった。高く澄んで、綺麗な声。でも、どこか哀しい。
「あの…。」千尋が声をかけると、彼女は心底驚いた様子で三人を見た。長く艶やかな漆黒の髪。質素な着物を身にまとってはいるが、高貴な印象の美しい女性だった。そして、…その女性の頭、髪の隙間からは、二本のツノが覗いていた。
 千尋は驚いて、一瞬身をすくめる。
「おお…。」女性は涙を流し始めた。
「わらわを迎えに来てくれたのか、そなたら。都からの使いか。あのお方につかわされたのか?のう、そうであろう?」千尋の二の腕を掴み、詰め寄る。
「都…?いえ、違います。」掴まれた腕に力がこめられて痛い。千尋は苦痛に顔をゆがませる。
「おはなし下さい。」女の腕をハクが千尋から引き剥がした。
「貴女は『備前屋』の方ですか?」ハクの問いには答えず、女は再び川面に向かう。
「ツノが消えないのじゃ。何度、洗っても、髪をすいても、ツノが消えぬのじゃ。早く都へゆかねば、あのお方が私を待っている。わらわはあのお方の元へ嫁ぐのじゃから。なのに、ああ、ツノが消えぬ。」
 再度千尋が声をかけようとしたのを、ハクが止めた。
「やめた方がいい。この女性は正気を失っている。」
「でも…。」この人、泣いてる。
「娘。」あらぬ方を向いたまま、女が言う。
「そなた、わらわにその身差し出せ。」突然の出来事だった。それまで川へ向いて泣いていた女の右腕が蛇に代わり、千尋の体に絡みついた。一瞬伸びたと思われた腕は再び元の長さに戻り、千尋の身が女の元へ引き寄せられる。
「何を!!」虚を突かれたハクは身動きする事ができなかった。
「この体、わらわがいただく。ヌシ様の元で魂換えをしてもらおう。さすれば、この鬼となった身は清められる。そして、わらわは都へ行くのじゃ。」
 油断した。ハクが身構える。しかし、千尋の身をひきよせた女は千尋を盾にしている為、狙いが定まらない。
「ハク!!」囚われたまま千尋が叫ぶ。
 千尋を助けなければ。ハクの頭がホワイトアウトする。両手の中で気を練る。エネルギーが渦を巻き、スパークした。
 エネルギーの塊が女の頭を掠め、ひるんだ隙をついて千尋が逃げる。焼け付く痛みに女が悲鳴をあげ、顔を押さえた。
「おのれェェェ…。」髪が逆立ち、美しかった女の体は鱗に覆われ、目は赤くぎらぎらと光り、毒のような息を吐く。

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