恋ふる心は夢に見えきや

「さ、行きな。」
 繋いだ手を離す。取り戻した真実の名前。ただ一人、元の世界との接点。少女は去って行く。手にかすかに残る感触。いつかきっと、元の世界へ。約束は風に舞い、時だけが、確実に過ぎ去る。越えられなかった川の結界を、越える事のできるその日まで。

 ハク。その真実の名を「饒速水琥珀主」荒ぶる河川を制し、収める治水者の名も、名のみの存在となってしまった。治めるべき川は既に失われ、行き場を無くした彼が行き着いたのは、この世とあの世の境の場所。八百万の神々がその身を癒す場所。神でありながら、力の源を失い、人として生きることもかなわなかった身に、ふさわしい場所であったかどうか、正しい事であったか、誤った事であったか、もはやわかりはしなかった。それでも、彼は出会ったのだ。神であった頃の記憶を呼びさます少女に。


 幼子は、一人で歩く事もかなわない身であったのかもしれない。よちよちと、それでも輝く川面に魅せられたのか、目を輝かせ、橋から身を乗り出す。刹那、かかとを踏んでいただけだったのか、片方の靴が脱げ、川に落ちる。
「あぶない。」
 と、思った時には落ちていた。必死で手足をばたつかせ、生の本能に従って、命をながらえようとする、小さな命。このまま、ここで、命を落とさせてはならない。龍は身を寄せ、下から体を支え、水面から顔を出させる。突然息ができるようになって驚いた少女はバランスを崩し、再び水面へ落ちていく。腕が必要だった。
 龍神は転変し、少年の姿をとった。もがく少女を抱え、浅瀬まで泳いでいく。背の立つところまで、連れていき、少し離れたところで少女を見守った。泣きながら、母親を呼ぶ少女の元へ、姿をあらわしたいという衝動にかられたが、既に、少女の異変に気づいた母親が、名を呼びながら、泣いている幼子の元へ、浅瀬目指して走って来る姿が見えた。龍は黙って姿を消した。


 再び、やはりそこは橋の上で、少女は身を乗り出していた。どこかで見た光景。やさしい思い出。心をあたたかくさせる。自分は…この少女を知っている。
 守らなくてはいけない。そう思ったのは、あるいは条件反射だったのかもしれない。名前も、そう。母親が呼んでいた。「千尋」といった。本来ならば、既に根の国へ赴くべき身を、永らえようとしたのはこの少女に出会う為だった事。甘んじて、支配を受け、生きていく為の技を身につけた。人ならぬ身であったのに、かつては神だった龍は少女に焦がれた。

 いたわり、助け、再び元の世界へ戻す事ができるのならば、命さえも惜しくはないと。失った自分自身の代わりなのか、この気持ちが何なのか、自分自身で、もてあます。
 すがりつく少女をいとおしいと思う。ただ、元の世界へ無事戻したい。そう思う反面、このままここで、ずっと自分のそばに置くことがかなえば。頭を振り、考えを否定する。
 願いはかない、少女は去った。残された少年は、失った自分自身を取り戻し、元いた世界へ戻る事を、少女とともにある事を願ったが、願いはかなわなかった。契約という、掟。不安定な世界を支える絶対の不文律がそれを阻んだ。
 それでも、結界を越える事がかなったのは湯婆々にしては破格の譲歩であったのではなかろうか。

 会う事はできず、姿を見るに留まる。

 初めはうれしかった。歳月は少女を鮮やかに変えていく。くるくると変わる表情は、眺めているだけでも満たされていた。
 いつの頃からだろうか。他の誰の目にも触れさせたくない。そう思うようになったのは。生き生きと、小鳥のように翔ける翼を手折り、籠の中へ閉じ込め、自分だけを見つめて欲しいと。負の感情は、良くないモノを呼び寄せる。気づかれてはいけない。狂おしいこの恋を。自分の身の内に夜叉がいて、己自身を食い尽くす。あがいて、あがいて…。
 いつしか龍は結界を越える事をやめた。己の情動。焦がれる思いをぶつけるには、少女は成長したとはいえあまりにも幼い。

 ならばせめて。夢の中で、愛しい少女に会える事を、願った。

 真実、少女と少年が再会するのは、その、もう少し、後の事。
日ごと、夜ごとの夢の中で、今はまだ…。

(了)

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