入道雲のむこうに(2)

 会社帰りの父を駅まで迎えに行き、国道沿いのファミリーレストランで夕食を済ませて戻ると、幾分涼しくなって、車のクーラーを止めて、窓を開けて、家までの道を行く。ここでお父さんが道を間違えたのがそもそもの始まりだったっけ。引越しが嫌な気持ちなんてふきとんでしまうような、恐くて、ドキドキする経験だった。満月が、森を照らし、呼ばれているような錯覚を覚える。そういえば、父と母も、ふとした事で、あの町の経験を思い出したりするんだろうか。ビールを飲んでしまったので、帰りも母の運転だった。


 部屋へ戻り、買ってもらったばかりのワンピースの包装を解く。タグを丁寧にはさみで切って、姿見の前で合わせてみた。新しい服は、うれしい、うれしくて、少しドキドキする。すぐにでも試着してみたかったので、家に帰るなりシャワーを浴びた。丁寧に汗をふき取り、髪を乾かして、身を清め、ゆっくりと袖を通してみる。
 そのワンピースは千尋によく似合っていた。髪を下ろしてみたり、結う位置を変えてみる。リップくらいはしないと、かえってヘンかもしれないな。などと、姿見の前で、しばらく一人ファッションショーにいそしんでみた。
 「ハクに、見せたいなー。何て言うかな。」ふと、そんな思いつきに顔が赤くなる。やっぱり、すごく意識してる。「また、会える。」と、ハクは言った。次に会った時、どんな顔をしたらいいんだろう。

 その時だった。ベランダの方から、物音がした。びくっと全身を震わせて、見ると、湯バードと…。坊が立っていた。
 「千尋…一緒に来て。ハクが、大変なんだ。」

 あわてて、玄関まで靴を取りに行く。居間の前をそーーーっと通りかかると、母の膝で耳掻きをしてもらっている父が見えた。このクソ暑いのに。と、思いながら、サンダルを持って、2階へ駆け上がる。不思議の町で、ハクの背に乗って飛んだ時とは随分違う、湯バードの背に乗り、坊の案内で、千尋は再び、あの門をくぐった。


「ハク!」
 千尋の目の前で、ハクは倒れた。駆け寄ると、眉間に皺を寄せたまま眠っている。
「おばあちゃん!」泣きそうな目で、湯婆々を睨む。道中、坊から事情は聞いてきていたが、目の前にすると動揺してしまう。
「それくらいで、死にゃしないよ。セン。アタシと坊は、下に行ってくるから、そのコを介抱してやんな。水差しはソコ。目覚めたら、多分水を欲しがるだろうからね。それから、頭を高くして、帯も多少は解いてやるといい。」
 てきぱきと指示を出して、湯婆々は坊をともなって部屋を出て行った。千尋は、酔いつぶれたハクと共にとりのこされる格好になってしまった。
 何故自分が呼ばれたのかが理解できなかった。大切な話があると、湯婆々が言ったから。と坊は説明してはくれたが、内容まではわからないと。
 でも、とにかく、今はハクを何とかしないといけない。秀麗な顔はいよいよ白く、伏せた瞳も、苦しそうな息遣いも、すべてが綺麗だ。と思った。だが、見とれている場合では無い。襟を緩め、帯をほんの少し解く。さっきより、少しだけ、息使いが楽そうになった。あとは、頭を高く…って。
 しばし、アタリを見回して見る、オフィスのクッションは凝った刺繍がほどこされ、いかにも豪奢だが、厚みがありすぎて、かえって首に負担をかけそうだったし、坊の部屋のマクラでは、大きすぎるし、やわらかすぎる。
 …少し、考え込む。苦しそうに、ハクが寝返りをうった。カーペットが敷いてあるとはいえ、床は固い。坊の部屋まで引きずっていくには、体格差がある。念のため肩をゆすってみたが、反応は無い。もしかして、移動中に気分が悪くなるかもしれない。先ほどの、居間での両親の姿が浮かんだ。ひ…。膝。
 顔を横に振って、雑念を飛ばす。だって、ハクは苦しそうだから。

 ゆっくりと、頭を持ち上げる。一瞬、うめいて、すとん。と千尋の膝にハクの頭が納まると、安心したように、寝顔が安らかになった。先ほどとはうって変わった寝息。眉間の皺は消え。熟睡しているようだ。

 そうして見ると、ハクはやっぱり綺麗で、千尋は、このままずっとハクの寝顔を見つめていたいと思った。昼間の嫌な気持ちが嘘のように、暖かくて、やさしい気持ち。恋とか、愛とか、今はまだよくわからないけれど。ハクが目覚めて、何と言うのかが楽しみだった。驚くだろうか。このワンピースを見て、何と言ってくれるだろうか。足はしびれて、ちょっと痛いけど。それでも、千尋は、何だか嬉しかった。

(了)

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