男が千里へ向けて手を差し伸べた。

 千里の手を取り、腕に抱きしめる。細い肩がかすかに震えている。初々しい恥じらいに、嬉しくなって、千里の唇を奪おうとした刹那、千里の手がそれを阻んだ。

「…やれやれ、また、たいそう無粋だねえ」

 そうした行動さえもかわいらしいといった風情で、男は楽しそうに笑っている。

「印籠を…お見せ下さい」

 方や腕の中の娘は悲壮感さえただよわせるような決意を瞳に秘めている。

「これのこと?」

 懐から取り出した印籠に、一瞬気をとられた千里の隙を見逃さずに、男が千里の顎をとる。

「ン…ッ、くッ…」

 千里の口腔に、男の舌が入り込む。互いに瞳は閉じずに、睨み合い、噛み付くように口付ける。

 ほどなく、千里は男の呼吸に合わせて舌を絡めてきた。

 くちゅくちゅと、淫らな音が響く。

 やれ、存外純な娘でもなかったか、といささか拍子抜けしながら、男は千里を貪る。水干に滑り込んだ手が、柔らかな肌をまさぐり、しっとりした感触を味わうと、千里の喉から愉悦が漏れる。

 娘は、陶然と、愛撫に酔いしれている、かのように見えた…が。

 突然、自分の口に押し込められた苦さに驚いて、男が千里の身を引き剥がす。咳き込むように、吐き出そうとしたが、苦いモノは出てこない。跪いて、むせる。苦しそうな吐息の下から、声をしぼりだすようにうめいた。

「君は…誰だ!」

 一斤染めの水干に、落ちかかる髪は漆黒。龍の娘では…無い。

「問われて名乗るほどの名は持ち合わせておりません、一介の魔女…。娘の弱みにつけこんで、何事かなさん、とするから、どんな下衆かと思ったら…、たわいないこと」

 千里とはまた違った、挑むような視線の美女であった。

 苦しみもがく男を足蹴にし、乱れた水干を調える。

「先ほど口にされたのは私特製の秘薬、浮気防止にと頼まれたものですが、好色なあなたでしたらきっとてきめんにききますわね」

「それは…いったい?!」

 咳き込む男の下肢に、ふわり、と、黒髪が降り注ぐと、魔女と名乗った女が、男自身を口に含んだ。絡みつく舌と指先に、男の劣情が駆り立てられたその瞬間!

「ぐ…はァッ!!」

 快楽の高みから一気に地獄へと引き落とす、痛みが、脳天をギリギリと締め付ける。

「ざまァない、これに懲りたら、千里によからぬいたずらなど企てぬことね」

 薄闇の中で、魔女が不敵な笑みを作る。

 痛みに、肩で息をしながら、起き上がると、男は襖をねめつけるように見た。

「…やれ、本当に無粋な事だね、龍の娘は、…そこかな?」

 気合一閃、襖が音をたてて倒れると、黒い天鵞絨、袖の膨らんだドレスを身にまとった千里が立っていた。

「…ミズキ…」

「千里…あんた、隠れてなさいって言ったでしょう!?」

「ゴメン、でもミズキが心配で…」

「私なら心配いらないわ、現にもう、…ね?」

「でも…」

「やれやれ、見くびられたのはこちらの方だ」

 娘二人が省みると、先ほどまで痛みに苦痛を歪めていた男は、涼しい顔で煙管をふかしている。

「…!そんな!」

 ミズキが驚いて、再び男の下肢に手を伸ばそうとすると、今度は男がミズキの腕を取る。

「そう、君はまた別の機会にかわいがってあげるから」

 にっこりと微笑む顔に似ず、ミズキの腕は掴まれたままびくともしない。

「僕はねえ、毒物には随分と耐性があってね、だから君の腕が悪いわけじゃあないんだよ、なかなか上手だったしね」

「なッ…!」

 腕をとられたままのミズキが赤面する。

「やあ、それほどすれてもいないのか、かわいいね」

 菩薩の笑みを浮かべたまま、男は千里に向き直った。

「千里、誰にも言わない方がいい、と僕は言ったと思うんだけど」

 笑みを絶やさず続けるのがかえって恐ろしいほどの威圧となって、千里は身震いした。

「僕も、あまり手荒な事はしたくないんだけどね、…たとえば、この」

 布を引き裂く音がして、ミズキの水干が裂かれ白い肌が露になる。

「綺麗な魔女さんの肌に、爪をつきたてて、血がながれたら、きっとすごく素敵だと思うんだけど、君はどう思う?」

「ミズキ!」

「来ちゃダメ!千里、こんなの、何でもないんだから!」

 腕を捕られ、身動きのできないミズキの肌を、男の指が這い回る。

「ンッ…、あッ…アッん・・・」

 苦痛とも快楽ともとれるうめきが、ミズキの喉から漏れた。

「やめて!…やめて…下さい」

 千里が、力を失って膝をつく。

「そうだね、君はお友達思いだね、でもね、僕も少し怒っているんだ、…脱いでよ、そこで」

 千里は耳まで朱に染める。

「刃物でも隠されてたらたまらないしね、君はひとつ約束を破ってる、また約束を破らないとは限らないだろう?」

 無言のまま震えている千里を見かねて、男の爪がミズキの肌にくいこんでいく。わずかに、紅い血が白い肌を伝っていった。

「ミズキ!!」

「千里!ダメよ!」

 頬を染め、決意を固めると、千里は背中のファスナーに手をかけた。

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