荻野家の食卓

 某大手建築会社に勤務する荻野明夫、44歳は豚肉アレルギーだった。原因はわからない。6年前、都内営業所から今の事務所に移ってきてすぐの事だった。昼休みに、同僚から上手いトンカツ屋があるんですよ。と誘われ、何も考えず着いて行ったのだが…、頼んでみて、ひと切れ口に含んでみて、咀嚼はしても、どうも飲みくだすことができない。体が拒んでいるとしか思えなかった。結局その日は(店員や、同僚には悪かったが)急な腹痛、と言って、トイレに駆けこんだ。
 トンカツに限らない。カツ丼はおろか、加工してあるベーコン、ハンバーグ…といったものも一切受け付けなくなった。牛肉、鶏肉ではそんな症状はでない。医者に見てもらった方がいいのかとも思ったが、ようは豚肉を食べなければ良い話であったし、それ以来、豚肉に対して食欲もわかなかったので、別段不都合なく、現在に至っている。
 そして、この症状、実は彼の妻、悠子(41歳)も同用であるらしく、この6年というもの、荻野家の食卓に豚肉があがることはなかったのだ。娘の千尋には、そういった事は起きていないらしく、給食に出てくるカツや酢豚も残さず平らげている様子だった。


「あなた!大変!!」
 夏休みだからといって、いつまで寝ているの…と、娘を起こしに部屋に入ると、中はもぬけの空で、ベットも冷たい。
「千尋がいないの!」階段をバタバタと降りて来る。
「散歩にでも出てるんじゃあないの?夕べは熱帯夜だったし、朝の空気でも吸いに出ていったんだろう。靴は見たのかい?」
 ああ、そうね。と、今度は玄関に向かっていく。今度は走らず、ゆっくりと戻って来た。
「靴も無いみたいね。…出かけてるのかしら?」ついでとばかりに郵便受けを覗いてきたのか、新聞と、一枚の葉書を持っていた。新聞を夫に渡しながら、こんな時間に葉書なんて、と、絵葉書に視線を落とす。それは写真だった。草原と、所々から隆起している奇岩。6年前の引越しの日、道に迷ったテーマパークの跡地に、それは似ていた。あの時と記憶が、どうもはっきりしない。ただ、新居についてすぐに、千尋がひどく脅えて、熱を出した。…不思議な、出来事だった。


「千尋、元気でやってるかしらね。夏休みとはいっても一人で住み込みのアルバイトなんて、ちょっと大変だったんじゃないかしら。」
 唐突な妻のセリフに夫は面食らい、おいおい、何を…と言いかけて、新聞と一緒に手渡された絵葉書を見た。…そして。
「何、ああ見えて、千尋は結構しっかりしてるから。戻って来る頃には、ちょっと大人びているかもしれないよ。」
「でも、男の子もいるんでしょう?大丈夫かしら。」
「かわいい子には旅をさせよっていうじゃないか。心配いらないよ。」
 先ほどの事をすっかり忘れているようだ。

 種は葉書にある。葉書を出したのは湯婆々だった。千尋の両親は一度魔法にかかっている。一度魔法にかかった者はそれ以降も比較的かかりやすくなるという。
 どうやらすっかり暗示にかかっているようだ。これで、両親が心配して、警察へ届ける事も無い。実際、千尋は2度目の神隠しに遭っているわけだが、その事実を知る者は、今のところいなくなった。

「一度あった事は忘れないものさ。…思い出せないだけでね。」
 銭婆の微笑む顔が浮かぶようだった。

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