空と海の交わる場所〜ヨノハテ〜(4)

  海面が橙に染まり、千尋とハクは並んだまま、無言でそれを見つめていた。

「お腹すいた。」

 列車は灯篭の絨毯をゆっくりと抜けていく。

「お腹すいたってば。」

 オレンジと濃紺のコントラストが、ゆっくりとフェードアウトしていく。

「ねーーーーーーーー。お腹すいたよお。」

 …。静寂を破ったのは坊だった。

 振り向くと、むくれてふんぞり返り、足をぶらぶらさせ、座席からずり落ちそうな坊がいた。上目づかいで二人を見上げている。そういえば坊の存在をすっかり忘れていたような…気がする。後ろめたい気分で千尋が視線をそらすと、どうやらハクも同様らしく、あわてて荷物の中から包みを取り出していた。
「二人とも、坊がいる事忘れてたでしょお。」微動だにせずに、坊が言う。
「そ、そんな事は…。」ないわよ。と言いかけて、はっとなる。
「…あったかも。」やっぱり、小さい子が相手でも嘘はいけない。と、思った。
「センーーー。ひどおい。」手足をばたつかせ、イヤイヤをしそうになった坊の口にハクがおにぎりを押し込む。
「もががが。」ハクの表情は笑顔だったが、目が笑っていない。
「さ、お食べ。私が握ったんだ。坊がいい子になるように。まじないをかけてね。」にっこり。
 坊は一瞬ビクっとなり、突然おとなしくなって、むぐむぐとおにぎりを飲みこんだ。
「いい子だ、さあ、たくさんあるから。もうひとつお食べ。」
 こくこくと頷いて、坊はもう一つをほおばった。いつの間にか姿勢も正しくなっている。そういえば、ハクは坊の師匠みたいなものなんだな。と思いつき、何だか千尋はおかしくなって、つい噴出し、そのまま声を出して笑った。
「…千尋。何がおかしい。」ハクがちろり、と一瞥をよこす。
 確かに、ハクにこんな顔ですごまれたらちょっと怖いかもしれないな。
「だって、ハクってば、お母さんみたいなんだもん。」
「おかあさん…?!」ハクが絶句する。
「あ、私も欲しいな、おにぎり。」千尋はひとつ取って、かぶりついた。
 そういえば、あの時も、ハクがおにぎりを作ってくれたんだっけ。懐かしくなって、思い出し笑いをしてみる。
「あ、セン、やらしー。思い出し笑いだ。」既に2個目を平らげた坊が言う。
「坊…だからそういった物言いは誰から…。」自分の分を取りながら、ハクがあきれる。「えー。賄いにまざっている時とか、あとは皆の部屋に遊びに言った時とか。話してるよ。」
 ちょっと従業員と慣れ合いすぎているようだ。だが、まあ、坊の気さくさは良い方に作用するだろう。あきれながらも、ハクの瞳が驚くほどやさしくなる。
 辛い旅…になるはずなのに、なんだかほのぼのしてしまうのは何故だろう。でも、遠足みたいで何だか楽しいな。と、無責任に千尋は喜んでいた。向かい合わせのコンパートメントで、千尋の横に坊、向かいの席にハク。3人むきあって、お弁当なんて食べていると、物見遊山な気分になってくる。ハクが用意したのはおにぎりだけではなかった。3段重ねの重箱に、きっちりとおかずが詰められている。とりどりの、煮物や、焼き物。どれも上品な味付けでとても美味…であったが。
「…ねえ。これ全部ハクが作ったの?」
 むぐむぐと、そしてこっくりとハクが頷く。
「ハクはねえ。何でもできるんだよ。」先ほどの不機嫌はどこへ行ったのか、坊はまるで自分の事のように得意そうに言う。「えっへん。」と、ふんぞりかえる音が聞こえてきそうだ。
「食事をおろそかにしてはいけない。」しれっと言いきった。
「ねえ、センは?僕、センの手料理食べてみたい!」
「私?!」千尋はあやうく箸でつかみかけたサトイモの煮物をとりおとすところだった。「私は…その。」めずらしく千尋が口篭もる。
「そうだな…いつか。」どうやらハクには見透かされてしまっているらしい。理由知り顔で微笑んでいる。
「ごちそうしてもらおう。」
「きっとだよ。」
 これは、特訓が必要だな。と、千尋は表情には出さないよう、懸命に苦々しく微笑んだ。気づいたであろうハクが息を殺して、顔を伏せて笑っているのが気に入らなかったけれど。


 お腹いっぱいになって安心したのか、坊は千尋にもたれて眠ってしまった。
 ごととん、ごととん、と列車が揺れる。ハクと千尋、二人は向き合ったまま、視線をそらしている。さっきまでは、何ともなくて、普通にしゃべれていたのに、坊が眠ったとたん、何だか緊張してしまって、どうしていいのかわからない。
「眠くはないか?多分『ヨノハテ』に着くのは夜が明けてからだ。千尋も少し眠った方がいい。」
「うん。」そうは言ったが、ちっとも眠くない。でも眠らないと。そう思うとますます眠れなくなった。何度も、頭の向きを変えてみたり、腕を組んでみたり。
「千尋。」
「こちらへおいで。」
 向かいの席でハクが呼ぶ。隣に座るように。と、自分の横を指差した。
「でも、坊が。」と、千尋が答えるやいなや、ハクが右手の人差し指で宙に文字を書くと、千尋と坊の体が宙に浮いた。ふわふわと、引き寄せられるように、すとんと、千尋はハクの横に降ろされ、坊はいつの間にか毛布に包まれすやすやと寝息をたてている。千尋によりかかっているよりも、ダイエットで年相応な子供になった体の坊だけなら、列車の長椅子は充分ベッドの役割を果たす。
「ハク…。」驚いて言葉の続かない千尋をハクは無言で肩を抱き寄せ、自分の肩に千尋の頭を乗せた。
「よりかかれば、多少は楽になるだろう。」小さな、ささやくような声で言う。
 確かに、体制としては、楽…だけど。でも、でも、この状態で、眠れるとは、とても思えなかった。鼓動はいよいよ速くなり、目はますます冴えてきたような気さえする。
「ハクの馬鹿!これじゃあますます眠れないよ。」意固地になって、きつく目を閉じていると、やさしくハクの手が千尋の瞳を覆った。
「なんじの中に流れる火と水の名において…、あるじにやすらかなる眠りを。」
 呪文だった。やさ…しい、声。すっと。驚くほどあっけなく、垂直落下で眠りについた。
 千尋の体の重みが、肩にかかる。
「眠れないのはこちらの方だ。」と、ハクはため息をついた。
 どうやら長い夜になりそうだ、と既に覚悟は決めてある。空に一筋の流星。朝日が昇る頃、列車はヨノハテに着くはずだから。決意を込めて、ハクは窓の外の景色を、じっと眺めていた。

(了)

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