楼閣には、泣きそうな千里だけが残った。ゆっくりと近づく母に、本能的にしかられる、と思ったのか、千里はビクン!と身を震わせた。
「ゴメンなさいっっ!」
千尋が言うより早く、千里が言う。だが、振り上げられたかと思った腕はそうではなく、ふわりと、千里は母親に抱きとめられた。
「千里…」
「お母さん…」
「ゴメンなさいッ…私…、私…ッ」
母親の首にかじりつくように抱きついて、千里が泣きじゃくる。
「千里、坊…若のことが好きなの?」
泣き出した娘をやさしく抱きとめて母が問う。
「わからない…、でも、そばにいると、一緒にいるとうれしくて…それで」
最後の方は嗚咽でうまく聞き取れなかった。
「千里…」
髪を撫ぜて、諭すように千尋が言った。
「お父さんを、嫌いにならないでね。お父さんは千里の事が心配なのよ」
「…でも、若様、優しいよ」
必死で若を庇おうとする千里に、ふっと笑って、千尋が答える。
「そうね…、でも、若も、男の人なのよ、あまり、無防備になってはダメ、遊びに行くな、とは言わないけれど、あまり慎みのない事はしないでね。お母さんと約束」
そう言って、右手の小指を差し出した。おずおずと、千里も指を出し、母子は指きりをした。
灯篭に明かりが灯り、神々がやって来る。いつもの湯屋の始まり、ハクと若はむすっと一言も口をきかず、並んで足早に駆けている。
どすどすどすどすどすどすどすどすどす
「千里に不埒な真似をしてごらんなさい、今度は本気でいきますよ」
「…俺を見損なうな、…と、いうか、自分と一緒にするなよ、ハク」
「なっ…」
あっけにとられて足を止めてしまったハクを追い越し、若は初めての勝利に振るえていた。…この時は。
「…というわけさ」
ボイラー室へ、いつものように釜爺達の食事を運んできたリンは事の顛末を報告した。
「そいつぁ見ものだったなあ」
飯粒を飛ばして、釜爺が笑う。リンはススワタリ達へコンペイトウを蒔きおえると、立ち上がり、言った。
「もうさ、湯婆々真っ青の形相だったらしいぜ、千尋の奴」
「母は強し…って事だろうな」
ポリポリとたくあんを平らげ、ヤカンに直接口をつけて、ごくごくと茶を飲み干す。
「んで?お前さんは?」
「俺ェ?!…何言ってんだよ」
驚いて、リンは岡持ちを取り落とした。
「お前さんだって、もういい年だ、今のまんまじゃ、アレだ。チビにも負けとるぞ」
「いいんだよ、俺は」
そう言うと、空になった岡持ちに、どんぶりを下げて、リンはボイラー室を後にした。
「じゃーなー」
…、そう、日々は、たんたんと過ぎていく…かのように見えた。が、定期便の荷物に混ざって、一通の手紙が若宛てに届いた。台風来訪の予兆ともいえる、備前屋のヒコからの手紙は、まだ、若の手元へは届いてはいない…、それは、また次のお話…。
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