旅立ちは、夜になった。客のいない油屋はいつになく静かで、それでも、従業員皆うちそろって大戸を覗き込むように取り囲む。

 旅支度を整えた若と、備前屋へ戻るヒコが並んで廊下を渡ってくる。大戸で湯婆々、銭婆、釜爺、リン、ハク、千尋、そして千里がそれを迎える。…ミズキは、カオナシと共に少し離れたところでそれを眺めていた。喉の奥がツンとするのを堪え、目をそらすと、無表情な面の異形がそっと肩を叩いた。不思議と落ち着いて、ミズキは涙を流すことなく、事の次第を見守る事ができた。

 別れを惜しむ者達をかきわけるようにして、若が大戸へひらりと飛び上がると、ヒコがそれに続いた。

「随分と物々しいな」

 若が言うと、ハクがにっこりと笑って答えた。

「油屋の二代目との最後の邂逅かもしれませんからね」

 …と、相変わらず口が悪い。

「俺は簡単にはくたばらないぞ、ハク」

 そう言うと、若は小脇に抱えていた風呂敷包みを解いた。中から出てきたのは一反の真っ白な反物だった。

 皆がその美しさに目を奪われている隙をついて、若が千里を抱きかかえ、解いた反物で千里を包みこむ。

「婆々、皆、聞け、俺は必ず戻って来る、そして、戻ったら千里と祝言を挙げるぞ!」

 突然の宣誓に、誰も彼もが面食らった。

 やんやの声をあげる湯女や蛙男達に、口笛を吹いてリンが拍手する。千尋は驚きはしたものの、「ああ、そんな風にしたらせっかくの反物がシワになるわ」などとのん気に言っている。

 穏やかでないのは湯婆々とハク。

 二人の豆鉄砲を食らった鳩のような顔を見ながら、銭婆は肩を震わせて必死で笑いをかみ殺していたし、釜爺は声を立てて笑い出す。

 ヒコは、顔面蒼白で凍りつくハクに同情し、肩をすくめた。

「な…、な…何をっ!何を言っているんですかっ!ダメです!ダメに決まってます!『いつ』『誰が』そんな事を許したんですかっ!!!」

 激昂してハクが若をどなりつける。

「『今朝』『千里が』」

 しれっと、軽くハクをかわして、若が湯婆々に向き直った。

「婆々、ダメか?」

 湯婆々は肩を落とし、溜息をついた。

「ダメも何も、もう二人で決めちまったんだろう?」

「うん」

 幼い頃の面影をいまだ残す笑顔で屈託なく若が答える。

「じゃあ、あたしが何を言ったって無駄だね」

「湯婆々様っ!!」

 往生際が悪いのはハクだけとなってしまった。

「なんだい、ウチの坊じゃあ不服だってのかい?」

 もはや孤立無援のハクに、頼れる者はいなかった。が、だからといって大人しくあきらめねばならない道理は無い。

 だが、そこへとどめの一言。

「お父さん…、ダメ?」

 父親はいつだって娘に弱い。若の腕の中、千里は涙で潤んだ目でハクを見つめる。自分一人が悪役か、とハクは溜息をつきたくなったが、ひるんではいられない。

「六年です。千里が十六になるまで、薬材が尽きる前に若が戻れなかったらその約束は反故。それであれば…」

 苦虫をかみ殺すように、血の涙を流すような悲痛な面持ちでハクがくるりと背を向けて言った。

 一斉に、喝采があがった。

「いっそどこかで野たれ死んでくれても一向かまいませんからね」

 こめかみをひくつかせながら、かろうじて笑顔を保ったハクが毒づく。

「お前…、それ心の底から言っているだろう」

「そんな事はありません、あなたが本当に死んでしまったら、千里が悲しむでしょうからね…」

 そう言ったハクの顔は少し寂しそうだった。

「今度は私があなたに言う番らしいですね、…若、千里を不幸にしたら、私が絶対許しませんからね」

 苦笑しているのは、かつての自分の祝言を思い出しているのだろうか。そう言ったハクの顔は少しだけ穏やかだった、が。

「当然だ」

 にかっと笑って若は腕の中の千里の頬に口付けた。

「なっ…!」

 今にも若に掴みかからんとするハクを必死で千尋が抑えて、若は千里を下に降ろし、耳元で囁いた。

「必ず戻る、だから…」

 追いすがるハクから逃げるように、若は大戸から飛び立つ。

「皆!元気でな!」

 ヒコが転じた黒い鷹がそれに続き、油屋上空を旋回すると、それぞれ反対方向に向かう。夜空の彼方、薬材を求めて、若は旅立った。

 千里の耳に、若の声が残る。

「いつか、この不思議の町で祝言をあげよう」

 若様、待ってるから、私、ここで待ってるからね!

 千里は、若の去った空を見つめていた。

 いつか、きっといつか…。千里が十六になるその日までに。


 

 

暴走劇場・終わり


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