ひなまつり

灯りをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花

まだ夜も明けて間もない淡闇の中
千里は布団の中で昨日母から教わったばかりの歌を
何度も心の中で口ずさんでいた。

そもそも、油屋では「雛祭」と言った行事は無い。
油屋の後継ぎは「一人息子」。よって娘の為の行事は必要ないのだ。

油屋で生まれ育った千里には「雛祭」の記憶は勿論無い。
ただ、昨日母から教わったのは先の歌と、それから。

千代紙で折られた1対の人形。

『元々は、このお人形に自分の体の調子の悪いところを伝えて
それを河に流したの。病気が治りますようにって』

『…でも今は。素敵な女の子になれますように。とか
幸せなお嫁さんになれますように。とか。』


私はいつになったら若様のおよめさんになれるんだろう……?


来るなと言われてからは部屋には行っていない。
油屋の中で姿を見かけても、大抵若は忙しそうに
ハクや父役達と仕事の話をしていたりして。


あと2年・3年・5年・6年……?


両親に包まれて過してきた時間は、今思い出してみれば
何と早く流れて来たものだろう。
そうして、若によって決められた年月が過ぎるのは
何と遠い先なのだろう。

千里は布団の中で体を小さく丸めると、
一秒でも早く過ぎて欲しいと固く瞼を閉ざしたのだった。



ひたひたと、廊下を渡る足音に気付いた若は魔法書から顔を上げた。
息を殺し耳を澄まさねば聞き取れぬ程の微かな足音。
行きて戻りつ。戻りて行きつ。

決して知らぬ足音ではないが故に、敢えて若は沈黙を守っていたのだが
暦の上では春とはいえ、この時刻ではまだ薄氷も張るものだ。
このままでは風邪をひかせてしまう。
諦めて若は読みかけの魔法書をそのままに、部屋の扉を開いた。

以前は毎日の事だった。
来るなと告げたのは自分だった。


「千里。何をしている?」

呼び声に遠ざかりかけていた背中がびくりと揺れる。
こちらの様子を伺うように振り向いた顔には
不安が見て取れた。


名前を呼ばれて思わず立ち止まってしまった千里は
恐る恐る若に向かって振り返った。

来るなと言われていたのに来てしまった。
声をかけようか。やめようか。
何度も廊下を行き来して。

もし。廊下でばったり出会ってしまったら?
そんな不安が無かったわけではない。
会ってしまったら、自分は何がしたかったのだろう?

顔が見たかった。
声が聞きたかった。
ただ、それだけなのだけれど。

「何をしている?」

そんな筈は無いのに。

言外に責められている気がして。

千里は身を固く縮めてしまった。


「あ、あの…若様……」

千里の肩に手を伸ばして、若は僅かに眉を寄せた。
すっかり冷え切っている小さな体。
一体どれほどの時間、此処でこうしていたのだろう?
どうしてもっと早くに気付かなかったのだろう?

「…とにかく、中に入れ」

廊下よりは暖かいだろう。
一旦離してしまった千里を再び部屋に入れてしまって
理性が保てるか些か不安ではあったのだが。
幸いというか机の上には読みかけの魔法書がそのままになっている。

ひとまず千里を座らせて、肩に上着をかけてやる。
そうして若は再び魔法書に視線を落とした。
……意識を千里から引き離すために。

「何の用だ?」

視線は本に落としたままで、千里に問い掛ける。

「あ、あのね。お母さんから聞いたんだけど
向こうの世界では今日は女の子のお祭りの日なんだって。
女の子が幸せなお嫁さんになれるようにって」

ふと、若の視線が千里を向いた。
黒い大きな瞳が若を見上げている。

「私、いつになったら若様のお嫁さんになれるの?」

問い掛けてくる瞳は静かな潤みを輝かせている。

「前にも言っただろう。あと6年待てと」

「大人になったら?」
「大人になるまで」

本当は今すぐにでもそうしたい。
抱き寄せて、口づけて、少女を奪ってしまいたい。

あと6年も待つのだ。
その間に状況はどれくら変わっているだろう
相手の気持ちを信じていないわけではない
ただ
自分に自信が持てないだけだ

早く千里を部屋に戻さないと、
また自制がきかなくなる。

「ちさ――――」
「若様じゃなきゃ嫌だよ?」

千里は水干の中から小さな人形を取り出した。
千代紙で折られた一対の人形。
その内の女雛を魔法書の上に置き

「どれだけ待っても、若様しかいないよ」

まっすぐに視線を合わせた次の瞬間。
柔らかな唇が若の頬をかすめた。

沸点を越えた瞬間。
千里は一瞬だけ振り返り、
薄紅に染めた頬を見せて扉をくぐりぬけてしまっていた。

その一瞬の内に腕に捕らえてしまっていたならば
今度こそ己を止める自信は無かった。

若にとっては爆弾のような千里の危うさに
苦笑をこぼしながら魔法書の上に残された女雛に指を伸ばす。
千里の残した想いの言葉が、抑えきれない愛しさとなって溢れ出す。
若は女雛に唇を落とすと、
再び湧き上がってきた熱情に打ち勝つべく
魔法書に意識を傾けた。

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