二代目の帰還で大宴会にて賑わっていた油屋も、流石に夜明け近づく頃にはあちらこちらにごろごろと、ある者は地響きとも思える鼾をかき、またある者は酒樽の中にぷっかりと浮かびなどして、至る所にマグロよろしく転がっていた。

 幸いにして給仕手伝いなどで酒に呑み潰される事のなかった千里は、マグロ達の上に掛け物をし終わると、此処には既にいない者の部屋へと一人薄闇の階段を上へと昇り始めた。

 とたとたとた。
 静けさの中では廊下を控えめに歩く足音すら大きな音に聞こえてしまう。

 やがて目的の部屋の扉を前にした千里はしかし、その前で立ち尽くしてしまったのだった。

 とくんとくんとくん。
 心臓の音が普段よりも大きい気がする。

 何も知らなかった幼い頃。深夜にこっそり部屋を抜け出し、若の元を訪れていた、皆がそれを知りながら、微笑ましく見守っていてくれた小さな千里では最早ない。こんな夜更け――否、既に明け方だが――に男の部屋を訪れる事の意味を、周囲がそれをどのように見るのかを知らぬでない。
 千里の意図はどうであれ、決して誉められる行為ではなく、寧ろ永の旅路を終えたばかりの若に「好ましく無い噂」が起こるのは想像に難くない。自分が原因でそんな迷惑をかける訳にはいかない。

 けれども、今を逃せばきっと、若は油屋の忙殺される日常に身を置く事になり、それこそゆっくり話すなど出来なくなるだろう。

 扉の前で逡巡する千里の耳に、心地よい声で誰何が、否、相手を確信した上での呼掛けがあった。

「千里?」

 心臓の鼓動が跳ねた。

「どうした?」
 扉を開いた若には既に旅の疲労の影は無い。けれども緩く着られた衣の様に、もう床に入るのだと千里は思った。

「千里?」

 再び問いかける若の声に、千里はふるふると首を横に振る。
「眠れないのか?」
 首を振る。

「…何でもありません。お休み前をお邪魔しまして申し訳ありません」

 本当は。
 顔が見たかっただけ。
 声が聞きたかっただけ。

 確かに、若が此処に戻って来たのだと。確かめたかっただけだった。

 一礼の後に踵を返し立ち去ろうとする千里をしかし若は引き止める。
「少し…話をしないか?」


*  *  *  *  *


 千里をソファに腰掛けさせ、二つのカップに紅茶を淹れて若は僅かに離れた所に腰を降ろした。

「一応は、湯婆婆やハクから聞いていたりするんだが。……何も無かったか?」
 無論、大湯女の誰某が年季明けしただの、身請けされたの、そう言った話には用は無い。
 若としては今回のような事件がもっと以前にも起こったのではないかとの危惧から問い掛けたのだが、生憎その意図は上手く伝わらなかったようで、千里は「特にこれと言って…」と小さく首を傾げた。
 それでも、思い出し思い出しし乍も、一つ一つの出来事を若に伝えて行く。

 若が旅立ってから初めて海原電鉄によって届けられた薬草を、釜爺の新しい薬草園に植えたこと。
 冬を乗り切る為に皆で苦労して建てた温室。
 ミズキとの和解。頻繁に互いの元へ通い合った事。
 ヒコが「いずれ備前屋にも来るが良いだろう」と告げて帰っていった後、何故かハクが大層不機嫌であった事。
 
 その様を思い出したのか、くすくすと小さな笑いがおきる。

 年月の順番はばらばらで、けれども実に様々な出来事があったのだと――若が案ずるような事件は無かったようで、心密かに安堵の息をついた――如実に思わせる千里の語り。
 
やがて、それも終える頃
「今度は若様から旅のお話を聞かせてください」
 僅かに頬を紅潮させて、千里は翡翠の瞳を細めた。
 身を乗り出してくるあたりの仕草には、まだまだ子供を思わせる。
「…そうだな。何処から話そうか」
 千里の身体を引き寄せて、すぐ隣に座らせる。


 激しい急流の岩場。苔に脚をとられ、流されそうになった。
 湿地の中、蛭に集られた。崩れやすい崖。毒蛇の眠る藪。
 路銀を無駄使いできず、また人里離れた山中に入ることも多く、必然野宿の日々だったこと。
 夜中に光を放ち幻覚を視せる木野子に倒れそうになった事もある。
「だが、良い修行になった」
 心配げな視線を向ける千里の髪に指を滑らせながら、若は小さく笑う。
 肉体的にも、剣技も、精神的にも。
 そして。

「最後の薬草を取り終え、あとはお前の元に帰るだけだったあの日。あいつに会った」
「あいつ?」
 問いかける口調はしかし、それが誰なのか解っているのだろう。だが、若は敢えてその者の名を口にする。
「今はセキトを名乗っている」

 千里が息を呑むのが聞こえた。

「それから後のことはお前が知るとおりだ………心配をかけてすまなかった」
 だが、千里はふるふると首を横に振ると、
「…無事に…帰って来てくれましたから…」
 今にも泣き出しそうな瞳で微笑んだ。

 その瞳に若の胸に疼きにも似た痛みが走る。
 流石に……不味い情況になりつつある……かも知れない。そんな思いに囚われ始めた。
「…そ…ろそろ、部屋に戻るか?」
 ぎこちない話題の切り替えに、一瞬首を傾げたものの、千里は『はい』と小さく頷いた。
 その顎に指を這わせ軽く持ち上げると、翡翠の瞳が真直ぐに若を見上げる形になる。

 瞼が閉ざされるのと、唇が重なるのはほぼ同時だった。

 千里の頬を包んだ手が項へと滑り、薄茶の髪を梳き上げる。
 千里の手が、若の衣にすがりつく。
 何度も何度も啄ばむような口づけを交わす。
「おやすみ」
 離れてゆく唇の、まだ互いの吐息が触れ合うほど近くで、若は小さく言葉を紡いだ。と、しかし。
 千里はくったりと若の胸に倒れこんで来たのだった。

「…千里?」
 うっすらと紅に染まった、薄く開かれたあどけない唇からは、規則正しく繰り返される吐息が聞こえてきた。

 もう大丈夫な様子を見せていたが、矢張りまだ何処かが張り詰めていたのだろう。それが漸く緩んだのか。
 若は千里のを抱き上げ寝台に横たえると、自分はソファででも眠ろうと身を離そうとした……が、千里の手が若の衣を掴んだまま、放そうとしない。

「……襲うぞ」
 渋面でもって耳元で囁けば、あろうことかそのまま身を寄せてくる。
 無理に引き離すのも偲ばれず、暫く逡巡を繰り返した後、若は千里の傍らに身を横たえた。

しどけなく眠る千里を胸に、理性を総動員して。




このまま何とか無事に朝を迎えられれば………

 心中で呟いて、ふと、ある記憶が甦る。


6年前の、「あの日」の再来か

「ハクの顔が見物だな…」
苦笑しつつ若は、甘い香を放つ千里の髪に顔を埋め、瞳を閉じた。


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