◆龍ヶ池の幻◆

そこは小さな池――・・・。
青碧色の小さな小さな池――・・・。

千尋が新しく通い始めた学校の裏山を・・・少し下った所に
その池は在る。

もうすぐやって来る端午の節句のお話を
学校の授業中に・・・先生が話してくれた。

・・・菖蒲や蓬を軒先に吊るしたのだよ・・・

・・・中国ではこの日、薬草を摘んだり、蓬酒を飲んだりして邪気をはらったんだよ
・・・

そう言って未だ30歳そこそこの若い教師が教えてくれた。

・・・男の子のいる家では鯉のぼりを立てたり、武者人形を飾ったり・・・

・・・柏餅を食べたり、ちまきを食べたりもするけれどね・・・

それを聞いて千尋は思った。

・・・男の子・・・うちには居ないもん・・・

お父さんは・・・千尋にとって、あくまでもお父さん。
男の子は・・・居ないのだ。
その時何処かで・・・
・・・それはやさしい寂しい風の音だったかもしれないけれど
囁くような呟くような音が聞こえる。

・・・ち・・・ひ・・・ろ・・・

それは・・・何処からともなく優しい五月の風とともに
青碧色の匂いのする・・・懐かしい風とともに。

ふと気がつくと・・・千尋はその池の前に立っていた。
深い緑の木立の揺らめく空間の中に
ほの暗い苔むした碧色の匂いと
何故か懐かしいやさしい匂いの漂いの中に

・・・ハク・・・

青碧色の池の水面から・・・
・・・それは静かに静かに運び込まれる名前
懐かしくも涙の零れるような愛しい名前――・・・。

・・・ハク・・・明日、柏餅を持ってくるね・・・

・・・ハクと一緒に食べたいなぁ・・・

千尋の言葉に・・・風が答える
千尋の言葉に・・・水が答える。

遥か彼方の追憶の時間を超越して――・・・。

白い水干と碧色の瞳の少年が・・・そっと微笑む。
決して忘れ去ることの無い・・・暖かな記憶の淵から――・・・。

・・・龍ヶ池、と呼ばれる小さな小さな池の淵から――・・・。

・・・ちひろ・・・ありがとう・・・


五月の翠の風と水が踊る―――。


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