カタン…。
部屋に一人でいた千里は突然の物音に驚いて振り向いた。入ってきた若の姿を見て安堵の溜息を漏らす。
「若様…」
気丈な娘、とはいえ、やはり怖い思いをした直後の事、心細い思いをしていたのか、顔にはわずかな緊張が浮かんでいる。背丈も伸び、女らしいまろやかな体つきをしげしげと眺める。
「?どうかなさいましたか?」
不躾な視線を気取られたと思ったか、あわてて若がぶんぶんとかぶりを振った。
「いや、大きくなったな、と、思って」
あえて「どこが」、とは言わない。
「前はすっぽりと膝の上に乗ったのに…どれ、重くなったかな?」
そう言って、若が腕を伸ばすと、千里が軽く悲鳴をあげてもおかまいなしに、若は千里を膝にかかえた。
やはり以前のように、すっぽりと腕の中、というわけにはいかないようだったが、それでも千里一人、支えきれない若ではなかった。千里を膝にのせたまま、欄干によりかかり、再び月明かりの下、空を仰ぐ。
「…すまなかったな」
千里の肩に顎をのせて、首筋に唇を這わせるように若が言った。
「俺は、感情にまかせて、湯屋とお前を捨てるところだった」
父親と、呼んだ事はなかったが、やはり、親の不始末をどうにかしたい、とでも思ったか、若は鯉にその身をささげ、珠となる事を潔しとした。それは自らの命も、残された人達さえも捨てる事に他ならないというのにもかかわらずの事だった。
「…許してくれるか?」
「許しません」
即答だった。
千里は、ひらり、と、若の腕から逃れて、一人、手すりに体を預けた。薄手の水干が月に透けて、体の線が露になる。予想とおり、水干は、千里の曲線を隠していたようだった。
いずれは、龍の娘というだけでなく、千里を望む者も出てくるだろう。
「もし、若様が湯屋を、私との約束を忘れていたなら許しません」
「許さなければ何とする?」
「死んだ魂を追って、黄泉まで連れ戻しに行きます」
あまりにも千里がきっぱりと言うので、若は面食らって、立ち上がり、千里の前に並んで立った。
「雄雄しいな、千里は」
「ちっとも雄雄しくなんてありません、現に私は自分の身ひとつ守れない、ミズキに頼って、若様に頼って…、お父さんが言っていました。若様の…お父さんの話、詳しい話は若自身から聞くように、と」
千里は、どうやら安穏と守られているだけの娘ではなかったようだ。
「そうだな…いつか話そう」
「…千里」
若の両手が、千里の両肩を掴んだ。
「誓うよ、『次は』無い、俺は必ず千里を守る」
千里は、若の言葉に、少し考え込むと、きっぱりとこう言った。
「では、若様は私が守ります、守れるようになります」
千里の顔が、あまりにも大まじめだったので、若は思わず吹き出し、「ひどい!」と千里にしたたか殴られた。
純血の龍ではない半竜の二人は、あるいは、そうして互いに補い合う事で、力を発揮する事ができるのかもしれない。若は、かつての誓いを再び口にしようと、息を吸い込んだ。
神妙な顔で千里がそれを聞き入る。
「千里…俺と…」
天に昇る事の無い龍の娘は、地上で伴侶を得、そして…。
コイは銀河の瀑布を昇り、天高く舞う龍を生む。
(了)
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