入道雲のむこうに(1)

 7月の日差しは容赦無く大地を焼き、アスファルトから陽炎が揺らぐ。打ち水でもしなくちゃやっていられないわ。と、ぼやきながら、母は水をまきにいく。一番日差しの強い時間。春は大好きな縁側はホットプレート状態で、千尋は「あなたのそばに霊はいる」とかなんとかいう、いかにも夏休みテイスト満点の番組を横目に見ながら、1階の居間でノートと問題集を広げていた。小学生、中学生ならいざしらず、高校生に夏休みドリルは無い。(数学、英語といった主要3科目は別だが)そのかわり、普段使っている問題集のどこそこからどこまで、といった範囲指定で宿題が出される。生物の問題集をひろげたはいいが、クーラーの無い部屋は既に拷問部屋と化し、居間に逃げてきたのだが…。

「えーーーー?クーラー壊れてるのお?」

 昼食に呼ばれて1階に降りると、あまりな母の言葉に、千尋の体感温度はさらに上昇した。昼のそうめんもそこそこ、無いよりはまし、と居間の扇風機の前に陣取っても、熱気をかきまぜるだけで、たいした効果はないようだ。

「暑い…。」

 畳に横たわり、TVを眺めたりもするが、汗はひかない。高台にある千尋の家は、下の家よりも緑にかこまれ、環境はいいが、セミの声がひっきりなしだ。夕暮れで、多少風も出てきた頃に聞くヒグラシの鳴き声ならいざしらず、汗でべとつく自分に、アブラゼミの泣き声とはあまりにもひどい。

「まあ、そんなところでごろごろして。」玄関に打ち水をしてきた母もタオルを首にかけ。いかにも暑そうだ。電気屋に電話しようと、コードレスの受話器を手にもっている。
「おかーさぁん。クーラーいつ直るの?」
「それを今から電話するんでしょう?…、千尋もどうせ当分は暑いんだから、図書館にでも行ってきたら?」
「だって、図書館に行くまでが暑いもん。」
 10歳の頃と変わらない、ぶちゃむくれの顔でごろごろしたまま答える。
「まったく、もう。いい歳した娘が…。」
 子機を持ったまま、キッチンへ消えていく。
「あーあ…。」
 ごろんと仰向けになり、濡縁の向こうの空を見る。入道雲。夏の…空。風鈴の音がする。…少しは風が出てきたのかもしれない。
 終業式のあの日。ハクに会った。この町に引越してきた日に出会って、数日で別れてしまった男の子。強烈に印象に残っている場面がフラッシュバックする。
 吹き抜ける風が緑の香りを含み、風の渡っていく草原は、夏だというのにどこか哀しくて、そして恐かった。あの日、家についてすぐ、千尋は熱を出した。豚に変わってしまった父と母。次々と現れる、わけのわからない生き物。働かないと、生きていけない場所。

「私はそなたの味方だ。」

 消えてしまいそうな恐怖。助けてくれたハク。
 誰も知らない、一人きりの世界で、
 唯一の。

 もちろん、その後、リンさんや、釜爺、おばあちゃんと、心を許してくれた人もいた。でも、あの、たったひとり、心細かった時に、助けてくれた。力付けてくれた。
 ただ、ただ、うれしくて。傷ついているハクを助けたいと思った。大切な…人だと思った。
 思えば、あれは恋だったのだろうか?
 わからない。小さい頃、そばにいたいと思った。別れるのが嫌だった。また会いたいと思った。でも、忘れてしまっていた。時間がたって、再び会って、大人になったハク。すらりと、伸びやかな手足。涼しげな目元。今まで見た、どんな男の子よりも素敵で、…だからこそ、千尋はなんだか自分が嫌だった。純粋に大切な人だと思ってた。かっこいいから、素敵だから…?そんな風に思うのは、過去の、まだ子供だった自分を冒涜することのような気がした。友人の中に、彼氏のいる子もいて、別れた、とか、つきあう事になった、とか、時々耳にする。興味が無いわけではなかったし、かっこいなあ、と思った男の子もいた。でも、恋ってどんな気持ちなんだろう。胸がしめつけられるあの感覚を、恋と呼ぶんだろうか。大切すぎて、だから、「恋」という言葉に置き換えたくないのかもしれない。…じゃあ、愛とか。…ダメだ。ますますわからなくなってきた。
 忘れていたのに、目の前にステキな人が現れてドキドキしているだけ。なんだとしたら、なんて薄情。なんて自分勝手。そんな自分が嫌だった。

「千尋!」
 ごろごろしていたところを、母に蹴り起こされた。
「いったいなあ、もー。何よぉ。」
 しぶしぶ起き上がる。
「勉強しないなら、それ、片付けなさい。それから着替えて。出かけるから。」
「どこへ?」
「買い物にでも行きましょう。クーラーの修理は明日ですって。今晩はクーラー無しよ。お父さんと待ち合わせて、外でお食事しましょう。こんな暑いキッチンで料理なんてできないわ。」
「はーい。」Tシャツにジョギングパンツ姿の千尋は、それでも、この暑さから開放されるのがうれしかった。


「あ。」
 母の運転でやってきた、隣町のショッピングセンター。(巨大駐車場付、アミューズメント施設、電気センター併設)の、マネキンの前で千尋の動きが止まった。それは、白いワンピースで、襟と裾のところがレースになっている。ノースリーブに薄手の生地がなんとも涼しそうだ。レースにはところどころ青の刺繍が入っている。
「千尋?どうしたの?」先を歩いていた母が立ち止まる。千尋は上目遣いで母を見た。千尋とマネキンを交互に見て、ため息をついてこう言った。
「試着…してきたら?」
「いいの?」
「数学はダメだったけど、他は少し成績上がったからね。ごほうび。でも、来学期は数学もちゃんとやること。それが条件。」
 顔を輝かせて、千尋は急いで店員を探しに行った。

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