若は夜着に着替え、白々と明けていく空を眺めていた。釜爺にああ言ったものの、本当にミズキときちんと話をつけられるのか、自信はなかった。
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ヒコとカズラギと面識があるとはいえ、やはり備前屋の日々は楽しいことばかりではなかった。若君として甘やかされた油屋での日々とは違い、備前屋では特別扱いなく、下働きから始まったのだ。雑用から始まった仕事と、ヒコとの剣術の稽古、また、カズラギからは薬学の講義など、およそ湯屋で取り仕切る事の大多数は備前屋で一から身に付けた。唯一手ほどきを受けなかったのは帳場の仕事。これは湯屋によってやりようが異なるということとと、いかに若といっても、備前屋の台所事情まで教えるわけにはいかないというヌシの配慮だった。概要は一通り習ったが、実際、帳場に立たせてもらう事はできなかった。
日々はめまぐるしく過ぎていき、疲労でぼろぼろになりながらも、備前屋の日々にも慣れた頃、若はミズキに出会った。
その日、ヒコとの稽古で思うさまたたきのめされた若は、ぼろぼろになって道場で大の字になって、あがる息を抑えるように大きく息を吸い込んで、胸を上下させていた。口の中に血の味が広がり、体中あちこちが痛かった。汗だくで、体中がべたつく。若は這うようにして道場を後にし、備前屋の敷地内にある露天風呂に向かった。
油屋と違い、天然の温泉をそのまま利用している備前屋は掘れば湯が沸いたりすることもある、そこはそうした隠し湯の一つで、稽古のあと、ここで汗を流すのが若の習慣になっていた。備前屋で働く者の中には、そうして、それぞれ気に入りの湯治場を持っている者が多くあり、時々かちあうこともあるらしいが、少し入り組んだ場所にあるそこで、若は自分以外の誰かに出くわしたことは「まだ」無かった。
全身の擦り傷を丁寧に洗い、しみるのを堪えて湯につかると、夜明け近い冷気が、湯で火照った体に心地よい。次第明けていく空を見つめながら、若は油屋の事を思った。仕事や稽古に追われていれば、考えずにすむことも、こうして少し気をゆるめると顔を出す。センとハクの祝言の日、若は油屋を出奔した。あれから、もう10年近くたつ。子供は既に生まれたのだろう。女の子だったと聞いた。やはりセンに似ているのだろうか。…ハクに似た娘…は、見たいような気もするが、頭の上がらない人物をこれ以上増やすのはごめんこうむりたい。若の記憶の中で、センは16のまま姿をとどめている。姉のように、また、母親のように。慕うこの気持ちを恋と呼んでいいのか、実は自分でもよくはわかっていなかった。ただ、必要に駆られて手ほどきをうけた女たちの顔と、センの顔をダブらせようとすると、どうも上手くいかない。犯しがたい神性を、自分はセンに見ているのだろうか、とも思う。神々への矜持の手段としての「それ」は確かに快楽をともなうものではあったが、それ以上の事は感じられない。そこに果たして「愛」だとか「恋」だとか、真実必要なのかさえ、若にはまだよくわからなかった。そうしたことには百戦錬磨と自負するカズラギに聞いてみても、「ナリはりっぱだが、まだヒヨコだな」と一笑に付されるだけで、聞きたい答えは導き出せない。
いつか自分も恋をするのかと、漠然とした未来に思いをはせてみたりもした。そして最後はいつも同じ結論に至る。その時考えればいい。いつかくるのかもしれないし、来ないのかもしれないその時に…と。
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