両手で湯をすくい、顔をごしごしとぬぐい、立ち上がった時、人の気配に振り向くと、…少女が立っていた。

 ぬばたまの黒髪艶やかに、唇は鮮烈な紅、優れた絵師が躊躇い無く一筋に引いたような眉の下に、黒曜石の瞳が煌き、長い髪が、白磁の肌によく映える。やわらかなふくらみを隠すような黒髪から、桃色の先端が除いている。ヒヒ神あたりが目にしたら、その場で床へ引きずり込みそうな、ふるえのくるような美少女が、そこには立っていた。

 お互い、一瞬言葉を失ったが、先に我に帰った若が、

「俺はもうすんだ、好きに使うといい」

 と、さらりと言ってのけ、自身を特別隠すでなく、美少女をじろじろ見るでなく、まるで山中で鹿か、りすにでも出くわした程度に、すたすたと少女の横を抜けて去っていった。ここで別の人間に会うのは珍しいな、程度には心動かされたのかもしれないが。

 取り残された少女は、一瞬何が起きたのかわからなかった。その美少女、ミズキは、控えめに考えても自分の美しさを自覚していた。備前屋では太夫こそはってはいないものの、その美貌と技で、名指しで席に呼ばれる事も少なくない。男どもが自分をどういった目で見るか、それを嫌悪しつつも、まったく悪い気はしていなかっただけに、先ほどの若の態度に唖然とした。若にとって、ミズキは十羽一からげの遊女にすぎないが、ミズキから見たら、若というのは数いる備前屋で働く若い男の中ではかなりの美丈夫で通っていたし、若の相手を務めたという事を自慢げに語る女も知っている。だが、ミズキはこう思っていた。自分は機会が無いだけで、その気になりさえすればいつでも自分の虜にするくらいはわけはないのだと。

 だが、しかし。

 もちろん、そうした劣情をひた隠そうとする男がいることも知っている。だが、それが見抜けないほどミズキの観察力は抜けてはいない。今のは、本当に興味をもたれなかったのだ。

 裏腹に、ミズキ自身のこの鼓動はどうだろうか。浅黒くなく、かといって白いとはいいがたい肌は引き締まり、整った体つきに、濡れ髪が額にかかる。これほどの男を、ミズキは神々の中にさえ見出せずにいた。そして、露ほどにも反応されなかった事を、これほど悔しく思った事はなかった。

 ぱしゃり…。

 握ったこぶしで水面を叩く。ミズキを中心に波紋が広がった。

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