――――――更に十年の時が過ぎた。
油屋の夜。いつものように川を渡って神々がやってくる時間、あわただしく来客の準備をしている湯屋をちょこちょことかけまわっている娘がいた。
赤い水干、髪を束ねている。年の頃は10歳くらいだろうか。明るい笑顔でカエル男や湯女たちの間を駆け抜ける。
「おや、今日も元気だねえ。」
「あんまり急ぐところぶよ。」
微笑ましく言葉をかわしている少女。
名を、千里といった。千尋とハクの間に生まれた娘だった。水干姿は驚くほど当時の千尋によく似ている。既に油屋の一員として腕を振るう(といっても下働きだが)しっかり者で、どうやらそんな所は父親似のようだ。
「いらっしゃいませ。」
「ようこそいらっしゃいました。」
橋のたもとで歓迎する蛙男達。異形の神々。――――その中に、ひときわ長身、甲冑に身を包み、背には剣を負っている男がいた。
「いらっしゃいませ。」
と見上げて蛙男はいぶかしんだ。栗色の髪。堀の深い顔だち。どこか、見覚えのある顔だった。
「俺は、客じゃない。」
低い、よくとおる声だった。
「ハクはどこにいる。」
帳場で、ハクはいつものようにデスクワークに励んでいた。
電話が鳴る。黒い受話器を持ち上げると、出迎え役の蛙男からの電話だった。
客では無い。と言い切ったが、さしあたりの居場所として、男は客間のひとつに通されていた。どっかりとあぐらをかいて、扉を見据える。すると扉がひらいて、少女が茶を持って入ってきた。
「いらっしゃいませ。」
ぺこり。とおじぎをする様がなんとも愛らしい。本来下働きの仕事では無いのだが、今日はとにかく手が足りない。と気をきかせてやってきたのは千里だった。
おじぎをして、あげた顔を見て、男は驚いた。
「…セン!?」
記憶の中の少女。初めて会ったのは、クッションの中だった。離したくなくて、そばにいて欲しくて、折れそうなほどに強く腕を掴んだ。
ちょこん、と正座をしてまっすぐに男を見つめる。
「お母さんを、知っている人ですか?」
いきなりつきつけられた現実。そうか、この娘が。…涙が出そうだった。
「ああ、よく知っている。」
茶をうけとって口に含む。
「…お父さんも?」
「…不本意ながら。」
眉間に皺を寄せて男が答える。
「娘。名は?」
「千里です。」
「チサト…か。よい名だ。」
微笑んで、いとおしいものを見る目で少女を見つめる。
「じゃあ、私はこれで。」
再びぺこりとお辞儀をして、少女は部屋を出ようとした。
「待て。」
腕を掴む。
「もう少し…ここに。」
そう言ったところで、扉が開いた。
「おかえりなさい。坊。」
にっこり笑って立っているのは、彼の師匠にして宿敵。
「お父さん!」
「…坊ってゆーな。」
「千里、こちらへおいで。」
しゃがんで手招きする。坊が手を離すと、千里はとてとてと父親の元へ駆け寄った。
「帰って来たぞ。…勝負だっ!」
帯びていた剣を抜き、ハクに向かってかまえる。
「ダメです。」
「何故だ!?」
「…今日は忙しいんですよ。もう、猫の手も借りたいくらいに。この子も、大切な戦力ですし、千尋も。今油屋で手が空いているのは貴方だけです。ね、猫の手さん」
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