帰り仕度をするヒコの横で、ミズキは膝をかかえこんでうずくまっていた。先ほどからお互い一言も口をきいていない。
気まずい沈黙を先に破ったのはヒコの方だった。
「ミズキ、やはりそれがしと共に備前屋へ帰ろう」
ヒコは、湯婆々の元であったやりとりをハクから聞いていた。備前屋としても、ミズキの件は管理不足、やれるべき事は協力するとの申し出は聞き入れられたが、ミズキを油屋へ残し、客を取らせる事にはヒコも千尋同様反対だった。そもそも、娼妓として客を取る場合、ある種のわりきりは必要で、覚悟が足りない娼妓は客にすぐに見破られる。すべての客に対して情をかける事ができるというのもまた、適性のひとつなのである。以前のミズキであれば、不要な心配であったが、少なくとも今のミズキにいい仕事ができるとは思えなかったのだ。
かといって、油屋へ残すわけにもいかない、しばらくは手元において、落ち着くのを待つのもいいだろう。と、ヒコは思っていた。
ヒコの言葉を聞いているのかいないのか、ミズキは黙って一点を見つめている。ややあって、襖が開き、銭婆が姿をあらわした。
「…これは、銭婆様」
あわててヒコが礼をとる。
「ああ、いいから、そのまま楽にしておくれ、それより、少しいいかい?」
「…ええ」
とまどいながら、ヒコが座布団を薦めると、銭婆はひらりとミズキの前に腰を落とした。
「突然、こんな申し出をするのは、何だと思うんだがね、ミズキ、あんた、私の所へ来ないかい?」
「銭婆様、それは…」
あわてて口を挟もうとしたヒコを、銭婆はやんわりとした笑顔で制した。
「魔女の修行をしてみちゃあどうか、と、思ってね」
人の口に戸は立てられない、いかにのんびりした油屋の者共といえど、今回の一件、一人残らず口をつぐむとは考えられない、ミズキを備前屋に戻したところで、そうした噂はついてくるだろう。信用で成り立つといのは神々相手ならなおのこと、今までとは別の仕事についたとしても、やはり、何がしかの支障は起きると考えるのは当然の事だった。
思いがけない銭婆の申し出に、ヒコは戸惑ったが、暫定的でも妥当な策だと思った。何よりも、ミズキ自身の為にもなるだろう。
光彩の曇っていたミズキの瞳に、わずかな動きがあった。銭婆は続ける。
「あんたも、一人で泣いたんだろう?一人きりで、泣いたんだろう?」
びくん、と、ミズキの肩が揺れる。
「一人で流した涙が多いほど、…皮肉だね、いい魔女に、なれるのさ」
そうして、銭婆は、そっとミズキを抱きしめた。
「私…、…わたしっ…やっぱり、忘れる事なんて、できない…っ」
ミズキの心の堰がはずれた。銭婆にしがみついて泣きじゃくる。
「ああ、そうさ、忘れなくたっていいんだ、あんたの気持ちは、あんただけのもんだ、ひとつの事を思いつづけるのも忘れるのも、あんたの好きにしたらいい、魔女の修行は、きっとあんた自身の心を操る助けになってくれるだろう。…あんたは、いい魔女になる」
銭婆は泣きじゃくるミズキを抱いたまま、ヒコに視線を移した。
ヒコもまた、涙をこらえたように、天井を見上げ、きっちりと膝をつくと、深く、銭婆に頭を下げた。
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