夜明け間近の油屋の、空には白い月一つ。家畜舎近くにあるハウス式の薬草園に、釜爺はいた。湯をおとしてしまえばボイラー室に用は無い。千里が泣きに来るのを横目にこっそりと薬草園に向かい、手入れにいそしんでいるのであった。手入れの行き届いた薬草園はボイラー室から湯を引き込むことで室温が調節され、季節を問わず、薬湯に必要な薬草の他、釜爺の趣味による種々雑多な植物が植えられている。

 油屋へ身を置いて、どれだけの時がたったというのだろう、と、釜爺は思った。随分と、長い時がたったようにも思えたし、瞬く間であったようにも思える。家族はいないが、家族のようなハクと千尋一家、リンに若、湯婆々や、あの面をつけたぬぼーっとしたカオナシに…銭婆。

 我ながら、不毛だったと苦笑する。この思いを、墓場まで持ってゆこうと決意をしたのはいつのことだったろうか。自分にも、いまだにそんな若い気持ちがあることに気づいて、照れたように、一人笑いをしてしまった。


君恋ふる


 千里を追って出た若だったが、結局見失ってしまい、あてどもなく流離っているうち、この、釜爺の薬草園まできてしまった。薄明の中灯るランプに、すわ、千里か?と、扉を開けて溜息をつく。

「…なんだ、釜爺か」

 あからさまに失望し、肩を落とす若に、釜爺が言う。

「ワシの薬草園にワシがいて、何がおかしい、…何しにきおった、千里ならおらんぞ」

 ボイラー室に…と、教えてやってもよかったが、少々憤慨していた釜爺はそのまま口をつぐんでしまった。

 若が美少女を抱えて部屋へ運んだ事実は瞬く間に湯屋中を駆け巡り、尾ひれはひれをつけて釜爺の耳にも入っていた、そこへやってきた泣きそうな顔の千里を、釜爺は見てしまっている。多少のいじわるはゆるされるというものだ。

「…別に、そんな理由じゃあ」

 釜爺の物言いにカチンときた若は、扉を閉めて薬草園の中に入った。

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Photo by (c)Tomoyuki.U