恋ひしきに(2)

 湯屋の大戸に、一羽の大きな鷲が舞い降りた。鷲が、一度両羽を振り上げると、それは黒い外套を羽織った人の姿をとった。大戸にて、空からの客をもてなしていた蛙男の一人に、黒い甲冑を纏った黒ずくめの武人が問うた。

「ハクか、若に目どおりを請う。私は、備前屋から参った、ヒコと申す」


 部屋で、若は、ソファに足を投げ出し、憮然としてふんぞりかえっていた。横で、湯婆々がポットから深い琥珀色の珈琲を注いでいる。

「いったい今日はどうしちまったんだい?坊」

 この子煩悩な母親は、変わらず息子を坊と呼ぶ、さすがに、もう反抗期という歳でなし、好きに呼べばいいと思っている若は特に訂正もせず、注がれたカップに手を伸ばした。
「…何でもない」

「そうかい?何だっけねえ、そう、この間届いたっていう手紙を読んでから、塞ぎこんじまって…何が書いてあったんだい?あの手紙には」

「心配かけてゴメン、婆婆、俺が…いけないんだけど、さ」

 それでも、母親を心配させまいとしているのか、苦い笑いで返す。挽きたて珈琲の香りが鼻腔をくすぐり、喉に流し込んでみても、心はちっとも安らがず、…そう、のんびりしている場合では、正直無いのだが、何とか考えたくない事実から目を反らしていたかった。
 すると、サイドテーブルのされこうべが、カタカタと、音を鳴らした。

「何だい?」

 それは、父役からの電話だった。

「坊…、お前に客だそうだ…その顔だと、わかってたんだね。手紙の相手だろう?」

 勘のいい母親の指摘はいつだって正しい。

「今、行く」

 ソファから勢いよく飛び降りると、もう湯婆々よりも(以前とは違った意味で)背の高い若者が身を翻した。

「やれやれ、大きくなったのはまだまだナリばっかりなのかねえ」

 ふてくされたように部屋を出て行く息子の背を、うれしいようなあきれたような顔で母親は見送った。


 会わねばならない相手は既に帳場でハクと話をしていた。

「若…」

 黒い甲冑に黒い外套を身に着けた、ヒコが、申し訳なさそうに若を見る。

「ひさしぶり…、というほどでもない…か、で?ミズキは、どうやってここまでの切符を手に入れたんだ?」

「…違うのだ、若、あの子は、切符を持たないでこちらに向かった」

 ヒコが俯いて言う。

「!そんな、じゃあ、どうやって?!」

 眉間に皺を寄せて、ヒコが目を逸らした。

「恐らくは…線路をたどって」
「馬鹿な!?今は…確かに、海面は凍っていて歩いて来る事は不可能じゃない…けど、自殺行為だ!女の足でたどり着ける距離じゃない、…何でそれを早く言わないんだよ!」
「油屋にたどり着く前に、ミズキを押さえられると思ったのでな、これは私の落ち度だ…が、若、頼む、協力して欲しい、あの子を…」

 ヒコが全てを言い終えるより先に、若は湯屋を飛び出していた。

 残ったハクがヒコに言った。

「ヒコ、今は非常時だ、とにかく、私も手伝う、一刻も早く、その少女を見つけねば」

 二人は、頷きあうと、そのまま大戸に向かい、ハクは龍に転じ、ヒコは鷲に転じて飛び立った。



NEXT>>
INDEX>>
TOP>>

壁紙提供:幻灯館様