女が意識を戻すと、川岸での事はすべて忘れているらしく、ひどくうろたえて、持ち場へ戻って行ってしまった。高貴さは微塵も無く、急がねばしかられる、と、ひどくおびえているようだった。
「で?ヒコ。あんたがわしの所へ来るのはたいてい何か頼み事のある時だ。しかも『油屋』の二代目まで一緒だ。どうした、何があった?」
「ヌシ様に会わせてやって欲しい。」
単刀直入に切りだした。
一瞬、カズラギは身を固くし、坊とヒコを交互に見た。
「事情を知らんわけでもあるまいに、どーゆーこった。」
「おぬしもさっき言うたではないか。それがしも、『備前屋』がこのままでいいとは思っておらぬ。」
ヒコとカズラギの言い合いを聞いて、千尋は少し不安になっていた。ヨノハテまでやって来たのは、湯婆々の体を取り戻す事もそうだが、ハクに新しい力の源を授けてくれるような神に会う事。先ほどの話を聞くに、とても、そうした力のある神がこの湯屋に来ているとは思えなかった。
「なるほど…ね。…おい、坊主、母親に…いや、母親の体を探しに来たのか。」
坊はこっくりと頷く。
カズラギは顔をそらし、目を閉じた。何か考えている様子だった。
そして、意を決したように、言った。
「ダメだ。」
坊が顔色を変える。
「何故!何で!ここのヌシって坊の…父親なんでしょ?息子にも会わせてもらえないの?」 カズラギは溜息をついた。
「湯婆々から何も聞いてないのか?」ふてくされて坊が頷く。
「だから、婆婆の体がココにあるって…。」坊が言いよどむ。
「じゃあ、何でヌシが湯婆々を魂と体に分けたかまでは聞いてねえんだな。」
「…そうだけど。」
「じゃあなおの事できねえ相談だ。今夜はわしのトコロへ泊めてやる。夜が明けたら帰るんだ。列車はねえが線路づたいに行けば日にちァかかるが戻れる。悪い事ァ言わねェ。」
「でも…。」
「帰れ。」
一切、とりつくシマが無い。だがそれでは、ハクの契約は果たせない。力の源も得られない。…そして、千尋と共に元の世界に戻る事もできないのだ。
「あの…、」言い出そうとした千尋をハクが遮った。
「わかりました。」
「えええーーーーっっ。」千尋同様、坊も不服そうだ。
「わかってもらえたか。」
カズラギが安堵の表情を見せる。ヒコも、坊達と同様、意にあらずといった表情だ。
「おぬし…。」
ハクが、ヒコに視線を送る。意を決したハクの様子に得心したのか、ヒコは何も言わなかった。
「お言葉に甘えさせていただいてよろしいでしょうか?一晩、お世話になります。」
微笑んだハクの顔は、そう、あの…、心に秘めたモノのある時の微笑みだった。
雑然とした部屋の奥には次の間がついており、そちらの方は普段は使っていないのか、閑散としていて、屏風がひとつあるだけだった。
三人一緒でいいだろう。とカズラギは言うが…。
ハクと、同じ部屋で…、(本当は坊も一緒なのだが)一晩、(列車でもひとつのコンパートメントだったが、それとこれとはやはり状況が異なる)過ごす。
千尋は必要以上にうろたえた。屏風で仕切ればいい話だもんね。と、思い直してみてたが、動悸は治まらない。
仕事に戻る、と言って、ヒコは出て行った。早々に床がのべられ、布団が三つに枕が三つ。二つの布団と一つの布団の間には屏風が立てられていた。
「…そう、そうだよね。」
軽い自己嫌悪におちいりつつ、何だかなーと、思いながら、千尋は横になった。思ったより疲れていたのかもしれない。着替えるヒマも無く、そのまま掛け布団の上でうとうとしてしまった。
ハクが次の間に入ると、千尋が着替えずにそのまま眠っていた。
「千尋、そのまま眠ったら風邪をひくぞ。」
ハクが肩をゆするが、反応は無い。ハクは自分の布団から掛け布団を持ってきて、千尋にかけた。布団のかかった肩を、ぽんぽん、と叩く。
坊は、カズラギの元へおり、部屋には千尋と自分だけだった。ハクの鼓動が速くなる。安らかな、寝息。
ううん。と声をあげて千尋は寝返りをうった。掛け布団がはがれ、千尋の襟元が少し乱れているのが見えた。
見てはいけない。と、思う…、が、視線がそらせなくなってしまった。そう、今、ここにいるのは千尋と自分だけなのだ。
音もなく、ハクは千尋の枕元に立ち、すっと腰を落とし、額に、口付け…した。ほんの一瞬、ふれるだけの…。
思い直し、掛け布団を上まで引きずり上げで、ハクは急いで次の間を出た。
息があがっている。
「ハク?」
坊とカズラギが、ハクの異変に気づいて声をかけたが、ハクは赤面したまま何も答えなかった。
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