千尋が目を覚ますと、部屋には誰もおらず、時計も無い部屋で、どれだけの時が経ったかもわからない。カズラギの部屋へ行くと、坊が本を読んでいた。
「あ、セン…。起きちゃった?」
顔をあげて、言う。
「カズラギさんは?」
「急患だって、出ていったよ。」
「…ハクは?」
「…。」
坊は答えない。無言であるという事が、何よりも雄弁な事実としてそれを物語る。
「行かせたの?!たった一人で。」間違い無い。多分、それでも確認するように千尋が問う。
「大丈夫だよ。ハクは…強いから。」そう言いながら、坊は視線を会わせようとはしない。
「そんな、じゃあ何の為に、私…。」
「ハクは!センだけは、守りたいって。言ってた。だから。」
そういう人なのだ。ギリギリで、頼ってはくれない。自分だけで、…自分だけで。でも、たった一人で行ったのは、もしや覚悟あっての事なのではないのか、と、消極的な考えしか浮かばない。
自分の身さえもあやういがゆえに、ハクは自分を置いて行ったのではなかろうか。
「坊は、それでいいの?」
「そんな事ない!僕だって行きたかった!でも…、ハクと、約束したから。センを守るって。」
坊はうつむいてしまった。
「じゃあ、守って。」
「え…?」
千尋が坊の両肩を掴む。
「行こう。ハクの所へ。一人より、二人、二人よりも三人の方がいい…って事もあるかもしれないでしょう?何より、このままハクにもし何かあったら、私はそれを知る事ができない。そんなの嫌。確かに私には何の力もないし、この間のように、足でまといになってしまうのかもしれない。でも。このままここでじっとしているなんてできない。…だから、行こう。坊。ハクの所へ、三人で協力して、おばあちゃんの体を取り戻そう。」
根拠なんて無かった、ただ、ハクのそばにいたいだけなのかもしれない。でも、一緒にいれば、何かの役にたてはしないか。…そう、信じたかった。
「うん!」
力強く坊がうなずく。千尋と坊は部屋を出た。ハクを探して、共にヌシの所へ行く為に。
行く宛があるわけではない。とにかく、まずハクを探そう。という事にして、千尋達はハクを追う。
迷路のような回廊を抜けると、そこは小宴会場のような場所らしく、廊下の両側の障子にうかぶ影はあきらかに異形の者や、中には人のようなモノもいて、時折歓声や、笑い声が聞こえてくる。
「少なくとも、ここじゃないよね。」身を隠しながら、坊と千尋が物影から様子を伺う。
その時だった。音もせず千尋の背後にまわったモノがいた。生臭く、荒い息が首筋にあたり、千尋は驚いて身を翻す。
「おーやーこんな所に一人、娘がおるぞー。」
振り向くと、それは赤い顔をしたヒヒで、千尋よりもふたまわり大きなその体の体毛は白く、口からは、酔っているのかだらしなくよだれをたらしていた。頭から、全身を見ようとして千尋が律然とする。むきだしの下半身に、赤黒くそそり立つ、いまわしいモノを視界に入れてしまい、あわてて視線を反らした。
「ほほお、顔を明らめて、かわいいのお。」息を荒くして、娘の初初しい反応を喜んでいるようだ。
「ほれ、こちらへ来い。」腕を掴んで引き寄せる。千尋の全身に寒気が走る。
「どうした、見るのは初めてか?ん?何に、すぐにむしゃぶりたくなってくるよう、教えてやろう、じっくりと、な、ほれ触ってみい。」千尋の右手を下半身のそれへ導こうとする。
「いやっ!」千尋が悲鳴をあげ、坊が割って入ろうとする。
「やめろ!」ヒヒの千尋の腕を掴んでいる方の腕に坊が手をかける。
「ええい、邪魔だ。」と、坊に向かって息を吹きかける。すさまじい異臭に、坊の目が一瞬くらんだ。足がふらついた所をひっくりかえされる。ヒヒは自分の髪をむしりとってふっと息を吹きかけた。すると、短かった髪が、松の葉のように、坊の体を廊下に縫いつける。
「さーてこれで邪魔者はいない。ほれほれ、どうじゃ、嫌ならこちらから…、」と体を寄せ、千尋の乳房に手を伸ばそうとする。
「嫌だ!」心の底から、けがらわしい。と思った。触れられている所から自分が朽ちていくような、嫌な感覚。嫌!嫌!嫌!ハク。助けてっ!瞳に涙をためて、心からそう思った。
「おはなしくださいましな。」背後から、女の声がした。美しく着飾り、髪を結いあげ、豪奢なかんざしをいくつも差している。
「おお…サルメの君。」さらなる美人の登場に、ヒヒは一瞬気をとられ、隙をついていましめを解いた坊が千尋を救い出す。
「をを、これこれ、そちらの娘も。」ヒヒが千尋を追をうとしたところを、女が割って入った。
「ひどい方、私がおりますのに、他の娘がいいだなんて。」
「いや、けしてそういうわけでは。」言い訳をしつつも、名残おしそうに千尋を見る。坊はヒヒの視界に千尋を入れることさえもけがらわしいと思い、その体で必死に千尋を隠していた。
「さあ、参りましょう。あちらへ…ね。」女性とは思えない強い力でぐいぐいとヒヒを連れていく、一度千尋達の方を見ると、軽く片目を閉じた。怖がっている千尋はふるえて視線を併せる事ができなかったが、坊は気づいたようだ。割って入った女性の正体を。あれは!あれは…。
女性が指で手まねきをし、坊にみみうちした。こくり、とうなずいて、千尋の元へ戻ると、女はヒヒを連れて、宴会場へ戻って行った。
「セン、大丈夫?」尋ねるが、千尋はがたがたとふるえるばかりで、一度ビクンと身を震わせただけだった。
「ごめん、僕はまた、守りきれなかった…。」坊がうなだれる。その言葉に千尋は敏感に反応した。
「ううん、坊は悪くない。」悪いのは自分だ。思い上がっていた。やはり自分はハクがいなければどうにもできない、ひどく弱い存在のような気がした。助けたい、などと思っても、結局ハクに助けを請う。なんて情けない。
「やっぱり戻る?」坊がおずおずと尋ねる。
「…行く。今度こそ、大丈夫だから。」そうは言っても、体はまだ震えていた。必死で体の震えをおさえつけるように、自分で自分を抱きしめる。
「じゃあ、こっちだ。」坊が先導して、千尋を誘導する。そこは宴会場を抜けた先にある一室で、広い和室。カズラギの部屋よりかなり広く、大きな箪笥と、不似合いな武器の掛けてある奇妙な部屋だった。そこに、見覚えのある三叉戟を見つけて、千尋は驚いた。
「坊、ここは。」坊が答える前にその人が入って来る。
「大丈夫だったか、セン。」先ほどの女だった。女にしては背の高い、男としては小柄なその人は…。
「あ、さっきはありがとうございました。」気づいて千尋が礼を言う。名を呼ばれて顔をあげると、そこにいたのは、その人は。
「ヒコ…さん?」
「何だ、今頃気づいたのか。坊は既に気づいていたぞ。」微笑んだその顔はまぎれもなく女性のもの…であった。
「ヒコさんって、女の人だったんですか?」
「それがしは一度たりとも男と言った覚えはないが。」
いたずらっぽく笑う。
でも、だって…。千尋はこんらんした。じゃあどうして男のカッコなんか。
「それがしの仕事は、女達の監視と庇護だ。足抜けは捕らえるし、先ほどのように、お客様が行きすぎた場合はそれと気づかれぬようおいさめする。」
ああ、それで。この部屋の意図がわかった。とりどりの衣装と武器。相反する役割を、男として、また女としてとりしきるのがヒコの役目であったのだ。
「そうか、やはりハクは行ったか。」
髪を解き、無造作に膝をたてて座っていると、先ほどの麗人にはとても見えない。煙管を吸う、はすっぱな姿はどこか湯婆々を思わせる。
「…で?置いてかれたお姫様は、心配で出てきたはいいが、…と、こういうわけか。」
図星を指されて、千尋も坊もおし黙るしかなかった。
「ふむ。ま、なんともけなげではあるが。」ふーーーーっと、煙をはきだす姿がなんとも艶めかしい。
「だが、あやつ、死ぬぞ。」
冷淡に言い放つ。千尋と坊が言葉を発する前にヒコが続ける。
「どうやってヌシ様の元へ行くかは知らぬが、いきなり湯婆々の体を返せと言ったところで、とりあってはくれまい。」
「じゃあ!…どうすれば。」千尋がヒコに詰めよる。
「…それがわかれば苦労はせぬ。だからそれがしはカズラギに仲立ちを頼もうと思ったんだが。それも取り合ってはもらえなかった。」
「?カズラギさんの言う事なら聞いてもらえるの?」
「わからぬ。」
「わからぬって。そんなあ。」
しばしの無言。沈黙が流れた。
「ねえ。」千尋が尋ねる。
「どうしてカズラギさんはヌシ様に会えるの?」
「ヌシ様には、患いがある。日に一度、カズラギはヌシ様を診察するのじゃ。ヌシ様はめったに他の者には会わぬ。それがしでさえ、電話で指示をもうらうだけで、めったにお会いする事は無い。まして、普段のヌシ様の所在は知らんのじゃ。」
自嘲気味に、ヒコが微笑む。
「…それは、何時頃?」
「時間まではわからぬが…。」
「でも、カズラギさんは会えるのよね。」
「うむ。」
三人が視線を合わせる。決意を込めて、ヒコが言った。
「やれやれ、毒をくらわば、皿まで…。それがしも共に参ろう。」
少々時をさかのぼる…。
ハクは、時計塔にたどり着いていた。かすかだが、湯婆々の気をたどる。その魂のかすかな痕跡を、丹念にたどった。それはかなりの集中力を要する事だったが、どうやら大はずれではなかったらしい。女が一人、部屋にいて、光の差さないはめ殺し窓を見ていた。瞳には光が宿らず、視線さえも定まらない。だが、それと決めて、ハクは話しかけた。
「湯婆々…様?」
視線が、かすかに光を取り戻したように…見えた。
時計塔が鳴る。往診先でカズラギはそれを向かえた。部屋に戻る暇は無い。準備は既にできている。そのまま、時計塔へ入って行く。仕掛を操り、地下へ行く昇降機が姿を現す。
そして、そのまま、地下へと、消えていった。
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