乾杯とは「杯を乾かす」と書く(4)

「知っていたかい?アカガミ様とクロカミ様も双子なんだよ。まあ、顔は、似ていないけどね。体つきなんかはそっくりだ。あの二人は、トワダ様という女神を争って一度大喧嘩をしていてね。勝負に勝ったのはクロカミ様だったんだが、傷ついたアカガミ様にトワダ様がえらく同情しなすって、今はトワダ様とアカガミ様は一緒にお暮らしになってるんだそうだよ。」
 3人は黙って銭婆の入れた紅茶を飲んでいる。
「話というのは…。」
 切り出したのはハクだった。
「まあ、そうあわてるもんじゃない。似たような話ってのは、まあ、どこにでもあるもんさ。お前達にとっては、昔話みたいなものかもしれないね…。ただ、アタシ達とアカガミ様達の話と違うのは、相手の男が性悪だったってことさね。あいつは、湯婆々の体と魂を裂いて、体だけを持っていった。彷徨いそうになった魂を、私は身のうちに入れた。だが、いくらアタシ達が魔女だといっても、体は一つ、心は二つだ。アタシ達の体は、普通の2倍以上の速度で老いていった。だからね…本当はもっと若いんだよ。」
 せつなさそうに、銭婆は微笑んだ。
「婆婆もしかして…その男というのは。」
 その男というのは。たぶん、坊の父親なんだろう。
「あの子はね…、それでも、子煩悩な母親だったよ。坊の事を。坊の為を思いすぎて、…だから、アタシが眠っている隙にお前を使ってアタシの判子を盗ませたろう?あれは、契約書を作る為さ。アタシが、この体を、湯婆々に譲るっていうね。二人分の魂を載せたこの体は通常の2倍、歳をとっていく、こんな世界だ。保護者を失ったら、坊はどうなるかわからない。必死だったんだろうねえ。だが…、それは失敗した。そして、もっとひどい事実にあの子は気づいてしまった。ネズミになった坊に気づいてやれなかったって事。そして、同時にそれは、もうひとつの脅威となった。この体で、湯婆々と名乗ってしまえば、私があの子に取って代われてしまう。という事実に。」
「そして、私に、坊を一人前にするようにと?」
「そうさ。自分がいなくなっても、坊が生きていけるだけの力を早く身につける事。最悪、自分がいなくなっても、坊を守る別の誰かがいればいい。」
「でも、その契約書も、今はお前の手だ。ハク。お前、それをどうしたい?」
「これを破けば、湯婆々との契約は消える。私は自由になれる。そして…千尋と。千尋と生きたい。人間の世界で。」きっぱりと、真っ直ぐに銭婆を見つめ、ハクは答えた。
「じゃあ、仕方ない。お前は、もう自由だ。」
 不思議と、銭婆は落ち着いていた。瞳の奥が、怪しく光った。
 ハクは契約書に手をかけて、一気に破こうとした。
「やめて!」千尋がハクを止めた。
「千尋。どうして。」
「どうしても。ダメ。ダメだよ。ハク。それじゃあ坊が。おばあちゃん達がかわいそう。」 千尋がハクの腕にすがりつく。
「千尋…。」
 すると突然、銭婆が声をたてて笑いだした。ハクと千尋はきょとんとしている。
「やっぱり、千尋、お前はたいした子だよ。あんたは今、自分で自分の身を救ったんだ。」
「…どういう事?おばあちゃん。」
「ハク。お前、元川の主だろう。当然その頃の力の源は川だ。そして、この湯屋に来る神様は、ここで取れる作物と、それぞれ、自身の力の源となるものを自身の土地に持っている。あるものは川や山、木。…そして中には人身御供を糧にしている者もいる。ここに根ざしている者達もそうさ、この場所は自然の守り厚い場所。だからこそ、川がなくても、お前は形をとることができ、命ながらえる事ができた。だが。ここを出たら…どうなると思う?」
「力の…源を失う。」青ざめて、ハクが答えた。
「そう、そして、喪失した力を補う為、お前は自分の好むと好まざるとにかかわらずに、千尋の命を蝕んでいく。ゆるゆると、千尋はハクの人身御供になるところだったのさ。」
「そんな…。じゃあ、私は、永遠に千尋とは。」唇をかんでうつむく。
「ただね。そうなってしまっても、ひとつだけ、手はあるのさ。アタシと、改めて契約を結びなおせばいい。アタシはね。ハク。お前がその契約書をやぶいたら、それを交換条件にやってもらいたい事があったんだよ。だけど、千尋は、アタシ達に、坊に、同情してくれた。そんな千尋の命と、アタシの望みを、天秤にかけちゃあいけない。あやうくアタシは、己と身内かわいさにとんでもない事をやらかしちまうところだったよ。」
「どうすれば…、どうしたら私は。」銭婆はうつむいて、首を横にふった。
「確かに、アタシと契約すれば、お前は私の庇護の下、ここから力を得る事ができる。ただ…、アタシの注文は厳しいよ。」
「千尋と共に。あるのであれば。」
「湯婆々の体を奪った男のところに行って、体を取り戻してくること。」
 ハクはそれほど驚いた様子も見せない。
「甘く考えてはダメだ。あの男の力はアタシ達姉妹の比じゃあない。だいたい、その契約書を継続すれば、坊が一人前になるまで、お前の命は保証される。ただまあ…。」
 ちらりと銭婆は坊を横目で見た。
「少なくともあと10年はかかるだろうが。」
 10年。10年も先。
「そしてね。ハク。これは、確証は無いのだが、あの男の下へ行けば、お前は新しい力の源を手に入れる事ができるかもしれない。…あの男というのはね。やはり、こことは別の場所でお湯屋をやっている。だが、ここと違うのは、客がね、神様には違いないが、油屋にくるような、土着の神々を糧として生きている神々なんだよ。もっとより高位で、神格は高く、強い力を持っている。だからね、不毛になってしまった土地に力を与える事のできる神に、あるいは出会う事があるかもしれない。そうした土地の土地神にさえなれれば、新しく力の源を得る事ができる。お前を縛る物は無くなる。…だがこれは、確証も無い。そして、たいそう、危険な役目だ。あと10年。その間に、どこか新しい土地が見つかるかもしれない。それを待つのが、多分一番確実だ。」
「だが、私の気持ちはもう決まっている。」
 決意を秘めた瞳だった。強い光。それが千尋へ向くと、とたんにやさしい光に変わる。「千尋…すまないが。」
「じゃあ、私も行く」
「坊も!」
「婆婆の体を取り戻すのなら、僕の仕事だ!」
「ちょっとお待ちよ。坊はともかく…、千尋、お前は人間だよ。」
「そうだ千尋。危険だ。私はそなたを危機にさらしたくない。」
「センは僕が守るから。」
 ハクより先に声にしたのは坊だった。
「坊にはまだムリだ。」
「やってみなくちゃわかんないよ。」
 唐突に、ハクと坊の間に火花が散る。
「お願い。おばあちゃん。」千尋が懇願する。
「今度は、子豚やニワトリじゃすまないかもしれないんだよ。それでもいいのかい?」
 既に千尋の決意は固い。結局折れたのはハクだった。

 かくして、ハク、千尋、坊の3人は湯婆々の体を取り戻す為に旅立つ事になる。
それはまた、別のお話。

 …後日談。ハクはアカガミ様とクロカミ様にえらく気に入られたらしく、サービスしますという申し出にもかかわらず、上機嫌できちんと(従業員の飲み食いした分さえも)清算し、帰っていった。今度来る時は負けないという、二柱の神の言葉に、苦笑したハクは見ものであったという。

どっとはらい。

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