秘色〜守りたかった何か〜

  一帯の建物とは不釣合いなその時計塔は、今日もまた、時を刻む。
 
 永遠を願うゆえか、流れる時を計る場所に、変わらない体が封印されている。

 守人だけが、確実に年を重ねていくというのに、
 守られる肉体は永遠に、変わる事は無い。
 
 良い方へも、悪い方へも。

 部屋に、女が一人いて、嵌め殺しの窓を見つめていた。虚ろな眼差し。光の無い瞳。見たことの無い容貌だが、そこには面影がある。白い肌。栗色の髪。はっきりとした目鼻立ちに不似合いな和装。どこかで、見たことのある…顔。

「湯婆々…様?」

 周囲に人が居ないのを見計らって、ハクは声をかけた。
 無反応かと思われた、女の、瞳に一瞬光が差した。


 男は、水晶に映る映像を眺めていた。一定の視点は、男が手をかざすごとに切り替わる。次々と映される、からみ合う、遊女と客。あるいは、酒に酔い、狂乱する者達。退屈そうに何度も像を切り替える。
 最後に映った映像を見て、男は、愕然とする。あるはずのないモノが、いるはずの無い場所に映っている。緩慢だった動きは突然精彩を取り戻し、水晶を更紗に包むと、懐へ入れ、その場を立った。


 衝撃は突然、背後から襲ってきた。周囲には絶えず注意をはらっていただけに、その衝撃には成す術が無く、紙一重で交わしたとはいえ、ハクは状況を理解するまでにいくらかの時間を必要とした。
 まったく殺気を感じさせなかったのだ。

 にもかかわらず、攻撃を仕掛けてきた男の顔は険しい。

「いつの間に、ネズミがもぐりこんだか。…いや?お前、まさか。…龍、か?」
 戸口に立った男は、背は高いがひどく痩せていて、落ち窪んだ目がいっそう神経質そうな風貌を際立たせている。女物の襦袢をはおり、ゆらりと立つ姿は、狂人のそれか。長い髪を無造作に束ねている。
「とんだ泥棒龍だ。今ならまだ見逃してやってもいい、それを離してここを去れ。」
 威嚇するでなく、無気力に男が言う。
「そういうわけにはいかない。私の…目的を果たすために。」
 …沈黙。男とハクが睨み合う。
「お前、銭婆の手の者か。」
 無言で、ハクが返答する。
「『油屋』の白い龍の話は聞いた事があるぞ。中々有能であるらしいと、『油屋』はその龍と、薬湯でもっている…ともな。師匠の体を取り戻しに来たか。」
「だとしたら…どうする?」ハクは、千尋にも坊にも見せた事の無いような、凄みのある笑みを見せた。容赦の無い、表情。
 男は全くたじろがず、黙って懐の更紗を取り出した。水晶球が現れ、壁に像を結ぶ。そこには、白いヒヒが映っていた。好色な笑みを浮かべたその先にいるのは…。
「…千尋!?」ハクの表情が変わった。
 カズラギの元へ置いてきたはずの、坊と共に立っている。背後の脅威に気づかずに、あたりをうかがっている二人。…まやかしか?と、思いたかった。
「知っているか?あのヒヒを。好色な神だが、近頃は祀る者もなく、しばらく人身御供もご無沙汰だと、時折里の娘にいたずらはしているらしいがな。ああ見えて、好みがうるさい。うちとしては上客だが…、どうやら、あの娘が気に入ったようだ。世間ずれしていない処が良いのか。わからんがな。」男は、人の悪い笑みを見せる。水晶を持つ反対の手で、一枚の紙を取り出した。内容はわからない。が、最後に名前を書き込む場所がある。

 それは、契約書だった。

 ひらり、と舞い、それはハクの足元に落ちた。

「選べ。ここで、あの娘の犯される様を黙って見ているか、それとも、この『備前屋』で『油屋』同様力を振るうか。二つにひとつ。他に選択肢は、無い。」

 男が言い終わる前に、龍身に転変してハクが踊りかかる。牙が、爪が、男を切り裂こうとした。が、男は涼風をかわすように身を翻す。
 尾を掴まれると、人の身とは思えない、男の力に龍の体が踊った。床に叩きつけられ、一瞬昏倒する。立ち直ると、男の掌中で風が渦巻いていた。次々繰り出される真空の刃が鱗を、鬣をなぶる。刃が瞳を掠め、一瞬目を閉じた隙をついて、それまで立ち止まっていた男が空をすべるように龍に近づき、鬣をわしづかみにした。押さえつけられた頭の戒めを解こうとあがくが、徒労に終わる。
 龍の眼前に、水晶球が近づけられる。

 腕を掴まれ、屈辱に顔を歪める千尋の姿がそこにはあった。

 全身の血が沸騰し、傷口から血がほとばしる。翡翠の瞳は、怒りに燃え、殺気を込めた視線が男を射抜く。

 男の顔と、ヒヒの好色な顔、そして、千尋の顔が交錯する。

 ハクは、人の身に戻り、契約書に、署名をした。すると、一人の女が現れ、千尋を救ったようだった。千尋の無事を確認し、契約書を男に手渡す。
 男は手に取って、まじまじと契約書を眺めた。ハクの翡翠の瞳の奥の怒りの炎は、まだ消えてはいない。少々のあせりが、額に脂汗を滲ませる。

「いいだろう。」男が言うと、再びハクが転変して襲い掛かる。
 だが、見えない、契約の力が障壁となって、その身をはじいた。龍は男の足元に、力無く倒れた。

「無駄な事だ、異形の身で、恋に我が身を投げ出すなどと…。」

 吐き捨てるように言うと、男は契約書を懐にしまい、女を伴い、奥の間へ連れていく。
「本当に、愚かな事だ。」

 その言葉は、龍に向けたものだったのか、はたまた自分に向けたものか。

 御簾の向こうに二人が消えると、龍は息も絶え絶えに、一度上体を起こし、仕掛けた筈の罠に気づかれなかった事を確認すると、再び、そこに倒れこんだ。

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