それから、一番傷を負っていない、千尋と坊は大活躍だった。怪我人を運び、手当てをする。もちろん口やかましく指導するのはカズラギだ。
…ヒコは、左腕を失った。何の、これくらい。と口では元気そうではあったが、やはり武術自慢のヒコとしては、口惜しそうに、一度本気で手合わせしてみたかったぞ。と哀しそうにハクに語ったのが痛々しかった。
備前屋は、また、多くのものを失っていた。ヌシによって囚われていた魂が、闇と共に昇天してしまったのだ。騒ぎで、逗留していた神々の姿も見えない。あるいは、散り散りに帰っていってしまったのだろう。
カズラギの部屋で、ヌシが、向かい合って座っている。
「失ってしまったな。…何もかも。」
憑き物が落ちたように、ヌシははれやかな顔をしていた。
「私は、ここを閉めようと思う。」
茶を入れようとしていた、カズラギの手が止まった。
「わしらはどうする。昇天した魂のほかにも、ここにはまだ大勢いるんだぞ。」
憤慨して、カズラギが食ってかかる。
「…湯婆々の所へ、行ってはもらえまいか。」
「…お前もか?」
沈黙が流れる。
ガラリ、と引き戸の開く音がして、次の間で寝ているハズのヒコが起きだした。
「ヌシ様!そんな!」
ヌシが面食らった。
「やめるのは、いつでもできる。何かんだ言っても、こいつは、ここが好きなのさ。…そして、ワシもな。」
カズラギが笑う。
何故、見ようとしなかったんだろう。誰からも、受け入れられないと、思い込んで閉じこもっていた、自分。
「協力…して、くれるのか。」
おずおずと、ヌシが尋ねた。
今度こそ、ここを、真実癒しの場に。
「油屋に負けない、いい湯屋にしよう。」
何年ぶりだろうか、ヌシは、心から、笑った。
ハクと湯婆々はそれぞれ一室をあてがわれていた。
布団に横たわり、眠っているハクの部屋に、千尋がやってくる。洗面器に湯、手ぬぐいを盆に載せ、重たいのか、足でふすまを開け閉めした。
「千尋、行儀が悪い。」
横たわったまま、ハクが言った。きまり悪そうに、千尋が盆を枕元に置く。
「そんな事言うと、包帯替えてあげないから。」
ぷんとむくれてそっぽを向く姿がかわいらしくて、ハクは思わず吹き出した。
着物の下の包帯をはずそうと、もろ肌を脱ぐと、全身痛々しいほどに包帯が巻かれている。しゅるしゅると、ハクは自ら包帯をはずしかけ、千尋の視線に気づいた。
「…見たい?」
意地悪く微笑んで、ハクが尋ねる。
「ち、ちがっ…!私は、その、体をふこう…と。」背中を向けて、千尋が怒る。
「じゃあ、お言葉に甘えて、お願いしよう。」
振り向くと、ハクの、体が、あった。傷は、ほとんど治癒しているようで、すでにかさぶたのようになっている。洗面器で手ぬぐいを絞り、背中を拭いた。
広い、背中だった。お父さんとはまた違う。男の人の体だった。
「痛っ!」
ふいに、ハクが叫ぶ。
「大丈夫!?」
とあわてて顔を覗き込むと、
「…嘘。」
そのまま、抱きしめられた。ハクの、胸が熱い。
「ハ!ハクっっ!!」
真っ赤になった千尋が慌てて叫ぶ。
「好きだ。」
耳元で囁かれる。その声の響きに、一瞬鳥肌がたった。
「もう、気持ちを押さえる事ができない。千尋。私はそなたを…。」
真剣な瞳で見つめられる。顔が、近づく。
うれしい、と思った。すごくうれしい…のに。
「嫌ッ…!」
そのままハクを突き飛ばし、後ろも振り向かずに、部屋を出た。
部屋には、呆然としたハクだけが取り残された。
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