「世の中に〜絶えて通知簿なかりせば〜、夏の心はのどけからまし〜。」
「何言ってんのよ。千尋。」
友人と二人、帰路につく道すがら、何度眺めても変わらない数字にため息をついて、千尋がぼやいた。
「古典と日本史は得意なんだけどなあ。」
「いーじゃない。マシなのがあるだけ。」
そう言ってひらひらさせる友人の成績は、文系こそ千尋に劣りはするものの、理数系はほんの少しだが、千尋より数字が大きい。
「私の頭は数字をどーこーするのに向いてないのよ。きっと。」
「私から見たら、あの古文の活用形をどうにかできる方が尊敬に値するけどねー。」
不思議と古文はすらすらと入ってくる。歴史もしかり。脳への馴染みがよいのかどうか。少なくとも、数式のような拒絶反応は出ない。それどころか、古典の文章はそれほど深く考えずとも、現代文と変わらずにすらっと理解できてしまうのだった。
「あー!もう!数学も理科も消えちゃえばいいのに!」そう言って、通知表を持った手を振り上げた刹那。一陣の突風が千尋の手から通知表をもぎ取り、空へ解き放った。
「嘘っ!」うらわかき乙女にあるまじき嬌声をあげて、通知表を目で追う。
「やっばー、お母さんに怒られるよー!ゴメン、私、あれ追いかけるから!」
「気張れよー!夜電話するからー!」
「りょうかーい!」言うやいなや駆け出していた。
風が渡り、ざわめく木々の音。住宅地に囲まれた、箱庭のような森。
「あっちゃー、森の方に行っちゃったよ。もう…いっそあきらめた方がいいかなあ?確かに、『消えちゃえ』とは言ったけど…意味が違うよお。」
祠の集落。
「神様のお家よ。」教えてくれたのはお母さんだった。
森へ分け入って行く。大丈夫。家のすぐ近くだし。今日は午前中で終わり。ちょっと寄り道して、ハンバーガーを食べてきたから、お腹もすいてないし。お母さんには先生の用事で少し遅れたって言えば。うん。とにかく、通知表を無くした。なんて言っても信じてもらえないだろうし。多分、…と落ちた場所にアタリをつけて、森の奥へ進む。
ずんぐりしたお地蔵様の前を通り、トンネルの前までたどりつく。少し広くなったその場所。木々の切れ間。何故だろうか。そこに、あるような気がして。
木々に囲まれた道を抜け、広場に出る。来るときに見たずんぐりしたお地蔵様に良く似た、石像。そこに、…少年が立っていた。
「探し物はこれだろう?」
白い水干。浅葱の袴。髪は切りそろえられて、…整った顔立ちで、すっきりした目元の少年だった。歳の頃は12歳くらいか。時代錯誤な衣装の少年だった。手に持っている通知表をひらひらさせて、少年の手にあると、それはまるで呪府か何かのように見える。
どこかで、見たことのある少年だった。誰だったろう。思い出せない。
「拾ってくれたの?ありがとう!」
不思議と、恐くはなかった。
「私の事、思い出せないかい?」ぱっと、手に取ろうとした通知表を高く掲げる。つかみ損ねた右手が間抜けだ。すかさず、少年が右腕を掴む。
「わからない。…どこかで見た気もするの。でも、ダメ。思い出せない。あなたは私を知っているの?」
「知っているさ。君はセンだ。約束したろう?『またね』って。」
「セン?私は千尋よ。センじゃないわ。」
「覚えているはずさ、…思い出せないだけでね。」
右手を掴んだ手に力がこめられる。
「…痛い。離して!」
「名前を呼んで。私の名前を。そうすれば…。僕はそうなれるから。」
少年の瞳が千尋の瞳を捕らえる。じっと見つめられ、頬が赤くなるのが、自分でもわかった。
「あなたの…名前。」
「そう。呼んで。僕を、君の記憶の、この顔を。」
見たことのある、顔。でも違う。姿は知っている。…でも!違う。私が思い出さなきゃいけないのは…。
「何度言われても、思い出せないってば!痛い!痛い!離してっ!」
もみあっている二人に、白い竜が踊りかかった。 …白い、竜。翡翠の瞳。
一瞬、少年の手が緩む。千尋は逃げようとしたが、それより先に、再び少年が、今度は左の腕を掴む。
竜は…ゆっくりと、人の姿をとった。少年とよく似た、でも、少し形状が違う。直垂を簡素化したような、薄青の衣装を身に纏い、ストレートの髪を少し伸ばして、切りそろえ、結わえずにおろしている。少年と面差しが良く似ている…。そう、少年が成長した姿のようだった。華奢では無い。肩幅も、胸板も、ゴツくはないが、しなやかな雄鹿のような、りりしい若侍といった、青年だった。青年の視線と、千尋の視線が交差する。やさしい眼差し。鼓動が、どんどん速くなる。どきどきする。私は…、私は…。
「ハク!ハクね!」
堰を切ったように、記憶の奔流が溢れ出る。思い出した。記憶の封印が解けたように。何故忘れてしまっていたのだろう。約束したのに。
「そんな!セン!どうして!」掴まれた腕が痛い。
「痛い!離して!離して!あなた坊ね!湯婆々の子供の。どうしてハクの姿をしているの?!」
「あきらめろ、坊。千尋を放すんだ。」
きつくハクに睨み付けられ、少年、ハクの姿をした坊は泣き出した。
「だって。どうして?センは。この姿だったらって。センが…ひっく。僕を…ハクって呼んでくれたら、僕は千尋のハクになれたのに。」ぼろぼろと涙が溢れ出し。いつしか、坊の姿は、あの頃の千尋くらいの、子供の姿になっていった。やわらかそうな栗色の髪。ハクの水干は少し大きいらしく、ぶかぶかになっていた。ついに大声をあげて泣き出し、よろよろと腰を落として、ダダッ子のように手をいやいやし始めた。
「やれやれ。」ハクはため息をついた。
「久しぶりだ。元気であったか?」
低い声だった。千尋の知っているハクの声はもっと子供で。でも、解った。竜の姿をしていたハクをそれと解ったように。この青年はハクだ。やさしそうな視線にからめとられる。途端に緊張して、声がうわずる。
「げっ…元気元気!もう、病気知らずでさ。」(何言ってるんだろう…私。)坊は、あいかわらずベソベソしている。泣きたいのはこっちだよお。今度ハクに会う時は、絶対、ぜーったいお気に入りのワンピースとか、とにかく、一番かわいい私を見て欲しかったのに。
「ハ…ハクは大人っぽくなったね。誰かと…思った。」
「でも、千尋は気づいてくれた。思い出してくれた。うれしかったよ。」
「そんな…。何か、何となく。」照れて髪をかきあげる。
「でも、よく解ったね。坊もハクも。私の事。」
「それはね。」にっこり笑ってハクの手が千尋に向かって伸びる。頬をかすり、指先が髪留めをツンとつついた。
「あ!これは。」
ハクは微笑んでで頷いた。
「目印になっていたんだ。だから、時々、そっと覗きに来ていた。」
「何で?どうしてもっと早く声をかけてくれなかったの?私が…忘れちゃってたから?」 ハクは苦笑して、ちょっと困った様子で答えてくれた。
「ちゃんと、こちらに来れるようになってからでないと、耐えられない…って思ったから。早くに千尋に会ってしまったら、自分を押さえられないような気がしたから。契約を破ったら、もう二度と、千尋に会えなくなってしまうからね。」
「え…じゃあこれからは?」
「そう、坊のおかげでね。…賭けは私の勝ちだな。坊。」
「ちぇっ!ちぇっ!」既に泣き止んだ坊は目を真っ赤にしてふてくされている。
「賭け?」坊とハクを交互に見て、千尋が尋ねる。
「そう。でも、坊、乱暴はしないと約束したはずだぞ。」
「だって…。センに、僕を見て欲しかった。僕と一緒に油屋に来て欲しかった。セン。僕ね。センをお嫁さんにしたかったんだよ。」
「「嫁ぇ!」」千尋とハクが声を揃える。
「ぼ、坊!それは…!」
「だって、セン、ハクの事好きでしょう?」
「………!!」真っ赤になって千尋が絶句する。
「ハクの姿なら、僕の事、好きになってくれるかもしれないって。そう…思ったから。」ハクも絶句していた。端正な顔が真っ赤になっている。千尋とハクは並んでそっぽを向いて赤くなっていた。
「とにかく。」咳払いをひとつして、ハクは坊を抱き上げた。とんでも無い巨体だった坊だが、銭婆に、「あんたはちょっと太りすぎだね。」と言われたのがこたえたらしく、成長期にもかかわらず、ダイエットに励んだ結果普通の子供サイズになれたようだ。それも、どうも、セン…千尋の為であったらしい。
「せっかく覚えた変化の術をそんな事につかうのは関心しないな。銭婆が言っていた。坊は…才能があると。偏りなく伸ばせば、湯婆々以上の術使いになれるそうだ。さ、帰ろう。湯婆々様が待っている。」
坊は素直に頷いた。
「!…行っちゃうの?」不安そうに、千尋がハクの手を取る。その表情は十歳の頃と変わっていない。
「大丈夫。近いうちに、きっと会いにくるから。」微笑むと、突然千尋に近づき、耳元でささやいた。
「心配しなくていい。どんな姿をしていても、千尋はかわいいから。」
硬直している千尋を横目に、竜になったハクは、坊を乗せて舞い上がった。
竜の姿がトンネルの向こうに消えるまで、千尋は呆然と立ちつくしていた。
「寄り道しないでまっすぐ帰っていらっしゃいと言ったでしょう!?」
帰ると、真っ先に母の小言が待っていた。
「あ、これ。」
通知表をそのまま母に渡し、さらに「まあ、何?この数学の成績は…。」
既に小言は耳に届かない。千尋の心はハクの言葉を反芻していた。
「きっと会いにくるから。」
まだ、耳にハクの声が残っているようで、その晩は、眠れそうになかった。
そして、あの泣きそうな夢を見る事は、もう、ないのだ。
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