「久しぶりなんだからゆっくり甘えるのよ」

 と、千里に言い残して、ミズキはセキトを連れて帰っていった。湯屋は、突然戻ってきた跡取息子にわきあがり、久々に一本つけるという湯婆々の言葉に夜更けの油屋は賑やかな宴のさなかにあった。

 息子の無事な姿に母は安堵し、戻って来たら…の約束に、長の年月でどうにか我が身を納得させようと努力し続けた娘の父親は苦虫を噛みながらも喜び、同じく娘の母親は、弟分の帰還を素直に喜んでいた。

 月明かりの屋根の上、湯を使い、髪を切り、剃刀をあて、すっきりした宴の主役は、着慣れた直垂を着、一人で月を見ていた。

 そこへ現れたのは愛しい娘…ではなく、その父。若の師匠にして、今だ湯屋の実権を握る帳場の主。白い龍に転じるこの男は、若が湯屋を出たあの日と、いくらも年をとっていないように見える。竜種の長命ゆえか、薬湯の効能か、定かではなかったが、妻である人間の千尋も、あまり年をとっているように見えないところを見ると、からくりは湯屋にあるのかもしれなかった。

「どうしました?宴の主役が」

「…なんだ、ハクか」

 あからさまにがっかりした顔を向け、それでも数年ぶりの師への尊敬を忘れているわけではなかった。

「まさか貴方と肩を並べて杯を交わすことになるとは思いませんでしたよ」

 手にした瓢をかたむけ、若の杯に注ぎながらハクが言った。

「…どうしたんですか?」

 もう、若自身は、すっかり大人びた風貌だというのに、どこかすねたような表情は幼い頃と変わりなく、不思議ないとおしさでハクが尋ねた。

「ハクは、いつから…違うな、どうやって…、これも、違うか」

 ぶつぶつと、口篭もる。くしゃ、と、髪を掻き揚げて、若が言った。

「ハクは、『生まれた時から』龍だったのか?」

 不躾な問いにハクは面食らったが、即答した。

「それは秘密です」

 にっこり、と微笑む。そして続けた。

「龍というのは、九つの生き物の集合と考えられているそうですから、龍でなかったモノが龍になったり、龍同士が子を成して、純血種の龍が生まれたりもするそうですよ…そして、純血種の龍が集まって住んでいるのが…あそこです」

 そう言うと、ハクは月を指差した。

「月に…?じゃあ、ハクは…」

 若の問いに、ハクは沈黙で答える。微笑んだ顔は、否定にも肯定にも、どちらにもとれなかった。

「あいつは、どうなんだろう、あの、赤い龍は」

 ハクから視線を逸らし、月を仰ぎ見ながら若が言う。

「父親を『あいつ』呼ばわりとは感心しませんね」

 たしなめるように言うと、ハクは続けた。

「備前屋の主のあの方は、かつては月の宮殿にいたんだそうです。何故、こちらにいるのかまでは、私も知りませんが…」

「龍というのは、それほど成りたいものだろうか」

 ぽつりと、つぶやくように言うと、ハクは声をたてて笑った。

「便利は便利ですよ、空を飛ぶこともできるし、第一、私は龍でなければ、湯婆々様にやとってもらえなかったかもしれませんしね。そうすると、千尋はどうなっていたかわからないし、そうなると…」

「ああ、もういい、もういい、俺が悪かったから」

 まくしたてるハクを若が制した。…が、ハクが続けた。

「…そんな風に便利な龍です、千里を利用しようとする輩は、これからも出てくるでしょうね。守れますか?貴方に」

「言われなくても…お・義・父・さ・ん」

 皮肉っぽく若が笑うと、ハクは薄気味悪そうに苦笑いをして言った。

「やめてください、まだ、千里は『私と千尋の』娘です」

「そして、今度は『俺の』嫁になる」

 龍の娘は、今度は龍の奥方となり、そしていつか…母になるのだろう。半竜同士の子がどうなるのか、若自身にもわからなかった。

 若は、かつて、まだ幼かった千里に言った冗談を思い出す。

「俺の子を産めばいい。半竜同士、もしかしたら龍の子が生まれるかもしれない」

 まだ見ぬ我が子を思い、若は少し身震いをした。ああした輩は、また現れるかもしれない、…だが、守って見せよう、千里も、油屋も。

 心を決め、いつのまにかいっぱしの顔をするようになったかつての弟子を見守り、龍の父親は先行きを安じると共に、若を頼もしく思えるようになっている自分に気づいた。

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