朝焼けの野原、復旧した薬草園近くの湿原で、千里は花を摘んでいた。一面の菖蒲は、薬湯の材料になる。若が旅に出て以来、千里は釜爺の薬草園復旧を手伝っていた。

 旅先で若が入手した種、株を植え、育てる。海原電鉄で届けられるそれらと、若からの手紙が、千里と若を繋ぐ唯一のものだった。

――――だが。

 最近、若からの荷物はおろか手紙さえもが届かない。じき1年たとうというのに、音信不通になってしまっている。

 明けていく空を眺めながら、千里は手を止めて溜息をついた。

「もうじき、私、十六歳になっちゃうよ…、若様」

 いまだ幼さの残る顔に、父親譲りの翡翠の相貌、母に似た栗色のやわらかな髪。一斤染めの水干が包む肢体は娘らしいまろやかな線を描き出している。

 普段は気丈な千里だったが、こうしてたった一人になると、せつなく胸はかき乱れ、我知らず涙がこぼれそうになる。

「会いたいよ…若様」

 うつむいて、つんだ菖蒲に涙をおとすまいと、目を見開いて空を見上げた。泣いたところで、どうとなるわけではないのだから。と。

「辛い時は、泣いてしまった方がいいよ」

 ふいに声をかけられて振り返ると、湿原を抜けた先の畦に、一人の男が立っていた。

 炎のような緋色の髪を一本で束ね、金糸銀糸の綾を羽織ったその男は手にした煙管を口にくわえると、ふーーーっと煙を吐いた。

 にっこりと笑って、千里を真っ直ぐに見つめる。

 誰だろう、と、しばし千里は思案し、お姉さま達が騒いでいた客の容貌を思い出す。

「お客様、ここは…湯屋秘中の場所、お部屋へお戻り下さい」

 ハクの娘らしく、凛とした瞳で答えた。

「ちょっと散歩に来ただけだよ、あまり硬い事はナシにしようよ」

 そう言って、男が微笑む。害意のない、笑顔、に、見える。

 菖蒲を手に、湿原から畦に戻った千里は男の横をすり抜けるようにして立ち去ろうとした、が、ふいに腕を掴まれた。

「ねえ、君が千里でしょう?」

「お離し下さい」

 視線を逸らして腕を振り解こうとした、が、男はさらに強い力をもってぐい、と千里を引き寄せた。

「お客様、お戯れが過ぎるようですね」

 ひるまずに、千里が男をにらみ付けた。

「おや、そうした顔もまた愛らしい」

 涼しく受け流して、男が今度は千里の耳元で囁いた。

「君の愛しい男の事を知っているよ」

「若様の事を!?」

 千里の顔色が変わった。

 ああ、本当に、龍の子、といっても、女子とはかくも容易いことよ、男は心の中でほくそえみながら、極上の笑みを千里に向けていた。

 捕まえたよ。龍の…娘を―――――。

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