「若様の事をご存知とか、何でもいいんです、教えて下さい!」
すがるような目で、千里が男を見つめる。
愛しい男の事にこのように必死になるとは、本当に情の一途な、かわいらしい娘だ、と、男は思う、そうして、そんな娘を捕らえて思いのままにできたらどんなだろうか、とも思った。愛しい男の名を呼ぶこの娘を組み敷き、思いのままに…そして、泣きながら恋しい男の名を呼ぶ娘を狂わせ、恍惚の中でいつしか自分の名を呼ばせる事ができたなら。
くっくっくっ、と、男は喉を鳴らし、とろけるような甘い声で囁きかける。
「僕はあちこちを旅していてね」
掴んだ腕を緩めずに、ゆっくりと顔を近づける。
「その若者に出会ったのは、…そう、つい最近の事だ、珍しい薬草を探していると言っていたな、彼がわけいっていったあの霊山を…ハテ、何と言ったか」
男は焦らすように視線をはずし、狼狽する千里の表情を観察する。
「それは…何という山でしょうか?」
「戻って来た者はいない…、と、言い伝えられている場所だった、もしかしたらもう…命を落としているかも…」
「そんな…」
青ざめる千里は、男の腕がじわじわとその領域を侵しつづけている事に気づかない。
「それはいったい」
どこなんです、と、顔を上げたすぐその先に、男の顔があり、いつのまにか腰にまわった手がしっかりと千里を捕らえている。
「教えて欲しい?」
背の高い男は、かがむようにして、千里の顔に自分顔を近づける。
千里は、からみついてくるようなその男から逃れようと顔を背けた。が、あごをつかまれ、再び視線が至近距離でぶつかり会う。
「では、今晩私の部屋においで」
「!そんな!」
千里の顔はもはや青いというよりは白くなっていた。信じたくない、という思いが、男への不信に換わる。
「…お客様がお会いになった方、というのはどんなお方でしたか?」
冷えていく心が、千里に判断力を呼び起こす。
「栗色の髪に、甲冑姿の、背の高い若者だったね、腰には剣を帯び、…槍を持っていたかな、そして…」
男が懐から取り出したのは、油屋の紋の入った印籠だった。
「僕は、怪我をしたところを彼に助けられてね、その時に、薬ごともらったんだよ、これを」
にっこりと、男が笑う。
「それを、もっと良く見せて下さい!」
と、千里が印籠に手を伸ばそうとした刹那。男は軽やかに身をかわし、千里から離れた。
「僕の部屋に来たら、じっくり見せてあげる…君のお父さんやお母さんには内緒にしておいた方がいいな、僕はね、とても忘れっぽいんだよ、明日になったら忘れてしまうかもしれないね」
まるで一遍の邪気も持ち合わせていないかのような笑顔を作ると、男は踵を返して去っていった。千里は、力なくその場にへたりこんでしまった。
…信じたくは、なかった。
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