日が暮れてゆき、町に明かりの灯るその瞬間を眺める事が、千里は何より好きだった。ぼんやりと浮かぶ町の明かりと、滑るように川を渡る船と、どっと降りてくる神々は、油屋の開業の合図で、静まり返った湯屋がにわかに活気付くその瞬間のぴりっとした緊張感が大好きだった。
それなのに―――。
「おや、千里じゃないか、どうしたんだい?」
声をかけてきたのは、水干姿の湯女の一人。そこは、神々に奉仕する女達が、事前に身づくろいをする湯で、見世に出る必要の無い千里には縁の無い場所であるはず、と、不信に思い、声をかける。
「やっと見世に出る気になったんだね。よくハク様がお許しになったもんだ」
まくしたてる湯女の声を遠くぼんやりと聞いている、そうした千里に気分を害したか、湯女は不機嫌そうに去っていってしまった。
帯を解き、腹掛けが床に落ちると、白く透き通った肌に、柔らかな栗色の髪が落ちかかる。
いつもなら、心地良いはずの湯が、今日は泥沼のように体にまとわりついてくる。
「今夜、僕の部屋においで」
下心など無いような、無邪気な笑顔が浮かぶ。だが、その後におぞましい言葉が続いた。
「もちろん、それは、湯女として…だけどね。本当はお湯の世話もして欲しいんだけれども、他の者に見られるのは嫌だろう?」
行きたくなどはなかった。舐め回されるような視線を思い出し、湯の中で我が身を抱く。
しかし、それ以上に、若の安否が気がかりだった。嘘かもしれない。ただ、間違いなく若の持っていた印籠に、藁にもすがりたい気持ちで、千里は悲壮な決意をした。
しばし、俯き、両手で顔をぱしっと叩く。
自分の身は、自分で守る。だからこれは、決しておぞましい儀式の準備ではないのだと、自身に言い聞かせて、千里は湯から出た。
身を清め、再びきちっと帯を締める。髪を結い、出ようと思った矢先、思いがけない人物に…出会った。
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