時の止まった部屋(4)

 …その刹那。坊の戒めが解かれ、二人をかばう為に、身を投げ出したのは…。

 ヒコだった。

 巨大な衝撃が、ヒコの体を斜めに裂いていく。衝撃は、ヒコにぶつかり、そのまま、天井に激突した。轟音と共に、梁の一部が落ちてくる。砂煙の向こうで、それでも、立っているヒコの姿が見えた。片腕の感覚はもはやなく、左半身は、感覚を失い、ただ、体に繋がっているだけのようになりながらも、倒れずに、二人をかばう。甲冑は、もはやその意味をもたず、垂れ下がっていた。

「馬鹿な…。」
 今度の叫びはヌシのものだった。
「どういうつもりだ!」

 痛みをこらえて、ヌシを睨み据えるように、ヒコが言う。
「どうか…、もう、このような狼藉はおやめください。」
 片目は血の為に開くこともできず、息を吐く事さえも痛みがともなう。それでも、ヒコは体を休めようとはしなかった。
「見るべきものから目をそむけ、己の世界に閉じこもったとて、何も得ることは…できはしないのです。…どうか、どうかお考えを!…。」
「私に口答えをするな!」
 叫びと共に、再び衝撃がヒコを襲う。
 甲冑が吹き飛び、ヒコが右足を着く。
「お改め下さい。」絞りだすように言う。

 そして、前のめりに、倒れそこもうと、した、ヒコを支えたのは、人型に戻ったハクだった。横から、千尋が肩を支える。

「おお、コハクヌシよ、それを始末しろ、その娘と共に、八つ裂きにしてしまえ。」

 だが、言葉にハクは答えない。

 ヌシが愕然とし、契約書を懐から取り出した。一瞥し、それまでのせせら笑うような表情ではない、真実、憤怒の表情でハクを睨みつけた。

「貴様っ…!」

「私は、一度名を奪われた事がある。同じ間違いは犯さない。」

 契約書に書かれた名前は、意図して誤った名が記されていた。ヌシは呼び返さなかった。真実の名を。そこが、つけ目だった。一か八かの掛けだった。その場で気づかれたら、命さえ危ういペテン。

「だが、まさか、逆鱗を剥がされるとは思わなかった。痛みにまかせ、私は坊を傷つけ、そして千尋を傷つけた。この代価、その身で返してもらうぞ。」

 心の底から、ハクは怒っていた。自身の身で、よりにもよって千尋を傷つけてしまった事実に。

「そして、お前の正体…、逆鱗を知る者。お前は、…私と同じ。」

 ハクの言葉に、ヌシの全身が総毛立つ。見る間に、鱗が体を覆い、巨大化する。痩せた男は、真紅の竜に変化した。

「やはり、赤竜か!」

 赤い竜が天井を突き破り、昇っていく。昇りきったその先に…空が、見えた。

 同様に竜に転じて、ハクがヌシを追おうとする、今度は鬣に千尋がつかまった。
「待って!私も行く!!」
 傷ついたヒコを坊に託した千尋はしっかりと白竜の行く手をふさぐ。

 白竜は首を振って拒絶した…が、千尋は鬣を離さない。
 あきらめて、白竜は千尋を乗せたまま、赤竜の空けた天井の大穴をたどり、外に出た。
 時計塔にその身を巻きつけ、赤竜が威嚇するように喉を鳴らす。千尋を乗せた白竜が追いつき、宙空から赤竜を睨みつける。

「ダメ!」
 手綱を引くように、千尋がハクの鬣を引く。
「ハク、私を、ヌシさんの近くまで。」
 白竜がとまどいの視線を投げかける。千尋の願いを白竜は聞き入れず、そのまま、赤竜に向かい、爪をたてた。
 白竜のツメが、赤竜を裂く。
「ダメーーーーーーーっ!」
 叫んだ千尋が白竜の喉を締め付ける。白い竜と赤い竜は、もんどりうって、そのままそこから地下まで落下した。

 


一方。

 油屋の最上階。湯婆々のオフィスで、湯婆々は鏡に向かっていた。鏡のむこうで、同じ顔が別のことをしゃべる。

「ころあいのようだよ。」

 鏡の向こうの姉が言う。

「さ、行きな。」

 湯婆々は、自分と同じ顔のこの姉が大嫌いだった。姿は同じ。それなのに、力ははるかに自身を凌いで強い事がわかってしまっていたから。
 あの男との子をなした事でさえ、姉への面当てだった気さえしてくる。

 湯婆々は頭を振って、鏡の中の姉に向かって問い掛ける。
「本当に…いいのかい。」

 鏡の中の自分は微笑んでいるのに、自分の顔が笑っているのか、信じがたかった。

 曰く、魂は千里を越えるという。

 湯婆々の魂が、銭婆の体を離れて、元の体へと戻っていく。
 一瞬、体を姿見にもたせかけ、銭婆は、久しぶりにひとりになってしまった、自分の体を抱きしめた。

止まっていた時が…動き出そうとしていた。

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