夜が明けて、こっそりと、千尋は寝床を起きだした。来た時と同じ服に着替え、いつか、ハクと待ち合わせた、初めて会った橋を抜ける。
帰るのならば、ひっそりと帰った方がいい。誰にも会わずに。たった一人で。
油屋を見上げる。結局ハクには会えなかった。最上階のオフィスには、姉妹水入らずで過ごしたであろう湯婆々と銭婆がいるのだろう。リンはまだ眠ってたし、結局坊はそこで一緒に眠ってしまった。釜爺も、朝は弱いから、きっとまだ眠っている。
皆、会えてうれしかった。また、いつか、会えたらいい。でも、ハクには、ハクは、もしかしたらもう会ってくれないのかもしれない。嫌われて、しまったのかもしれない。
嫌な考えを追い払うように、踵を返すと、橋のたもとに、…ハクが、いた。
「送って行こう。もう、すぐそこまでだけれど。」
そう言って、手をさしのべる。さしのべた手を、取ろうと、千尋が腕を伸ばす。でも、手を取ることはできなかった。
一度差し出した手を戻し、泣きそうな顔で。
「ありがとう。」
とだけ言った。
行き場のなくなってしまった手を戻すと、ハクが少し先を歩く。
黙って、静かな町を歩く。前は、手に手をとって走りぬけた道。誰よりも、安心する、手。もしかしたら、お父さんよりも、お母さんよりも。その手を、私は自分で拒んだ。
草原が、風を渡り、空の青さがまぶしい。
「私は、約束を守れなかった。…さあ、行きな。振り向かないで。」
ハクの指が、時計塔を指す。
そして、それは、ハクが自身にかけた呪いでもあった、このまま、千尋が、ここを去ると同時に、自分と千尋の記憶を封じる。忘れる事が、癒しになるのなら。会わなければ、と、思いたくは無い。それでも、この、胸の苦しさから開放されるのであれば。
去って行く、千尋に向けて、ハクの指が、横に一閃した。
そう、これでいい。
千尋とハクはお互いに背を向けて、それぞれの方向に歩き始めた。
千尋は元の世界へ。
ハクは不思議の町へ。
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その時だった。
ふわり。と、ハクを後ろから抱きしめる。
千尋だった。
「ダメだ、千尋、振り向いては!」
ハクはあわてて時計塔に視線を移した。とたんに、空間がぐにゃりと歪み、時計塔が掻き消える。出口は…閉じてしまった。
「何ということを!もう、あそこから元の世界に行く事はできない。千尋、お父さんにも、お母さんにも会えないんだぞ!」
ハクに抱きついた千尋は、震えていた。
「千尋…。」
「いいの、もう、…ハク、嫌な思い、させて、ごめんね。」
泣きながら顔を上げる。
どうして、「怖い」と思ったんだろう。全然違うのに。
「少し…、びっくりして、怖くて。」
言いよどむ千尋にハクが思い出す。備前屋で、千尋が受けた屈辱を。思いがいたらなかったのは自分の方だった。自分のことだけ考えて、感情をぶつけてしまっていたのだ。
「いや、私の方こそ、考えが足りなかった。…震えているね。千尋。私も…怖い?」
ハクの問いに、千尋が、抱擁で答えた。ハクと向き合って抱き合う。
「ううん。恐くない。…こうしていると安心する。」
とくん、とくん、と心臓の音が聞こえる。ハクの鼓動の音。
とくん、とくん、とくん、とハクの鼓動が速くなるのに併せて、自分の鼓動も速くなるのを、千尋は感じていた。
「もう、いいの、ハクが、ここから出れないなら、私もここにいる。…ハクのいるところが、私の生きる場所だから。」
ハクの腰に回した千尋の腕に力がこもり、ハクも千尋を抱きしめた。
千尋が顔を上げる。涙を溜めた瞳で微笑んだ。
「ハク…大好き。」
草原に、一つになる二人の人影。風が草を渡る音がそよそよと聞こえてくる。真っ青な空の下、千尋は生きる場所を自ら選んだ。
このまま、二人で、そして、いつか、この不思議な町で…。
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