乾杯とは「杯を乾かす」と書く(1)

 望んで二人に分かれたわけじゃない。

 この世に「私」は「一人」で沢山。

 でも、…そう、やっぱり。

 「一人きり」でいいわけじゃない。

 「二人」であれば。


 神々の憩う場所。湯屋「油屋」。その最上階は経営者(?)という表現が適切かどうかはおいておいて。主である湯婆々のオフィス兼住居である。
 しかしながら、彼女は夜明けと共に鳥に扮して出かけていき、夜になると再び戻って来る。住居兼といっても湯婆々はここで寝起きをしてはいない。彼女が何をする為に、どこへ行っているのか。従業員筆頭。帳場を預かるハクも、最愛の息子である坊にさえ、知られてはいなかった。


 夕暮れ。門前の町に、灯篭に火がともり、またたく間に、町は帳に包まれる。草原は大河となり、今日もまた、いつものように、各地から「客」が、時計塔を抜け、船に乗ってやってくる。

 オフィスには、不機嫌そうな湯婆々と、ハク。ハクに抱えられた坊がいた。湯婆々はいらだたしげに机をコツコツと叩く。

「お前はもう少し義理堅いコだと思ってたんだけどね。」
 ハクの表情は変わらない。能面のごとく、冷ややかに湯婆々を見つめている。
「何のこたあない。あの娘だけが特別だったってわけだ。」煙管を加え、ため息を隠すように煙を吐く。
 坊はハクに抱かれている。驚くほどにおとなしく。まるでそれは、人質をとった誘拐犯とその親といった風に見えない事も無い。
「解ってるさ。『きまり』だからね。」そう言って、件の契約書を取り出す。
 その時。サイドデスクにあるしゃれこうべがカタカタと動き、「湯婆々様!湯婆々様!」と、父役の声を発した。
 湯婆々は緊張がとけたのか、心底うれしそうに、
「ちょいとお待ち。」とハクに言い置くと、契約書を手にしたまま、しゃれこうべに向き直った。
「どうしたんだい。何かあったのかい?気軽にあたしをお呼びでないよ。」
言葉はおっくうそうだが、声は溌剌としており、水をさされたのを心底よろこんでいるようだ。
「いや、もう下の者では手に負えません。」
「だからどうしたんだい。早くお言い!」
「それが…その、新参の蛙が予約を取り違えまして。」
「で?どうしたんだい。」
「その、アカガミ様とクロカミ様を同じ日に・・・。」
「なんだってぇ!」
「日にちをずらす手はずになっていたのですが。申し訳ありません。」
「トワダ様はご一緒じゃないのかい?あのお方がいれば、とりあえず表面上はとりつくろえるだろう。」
「…それが、今日はそれぞれに。トワダ様はお国元へ残られているとか。とにかくすぐに下へおいで下さい。もう、お二方とも今にもつかみかかりそうな勢いでして。」
「そりゃまた…。」
 湯婆々は考え深そうの目を細めて、ハクへ視線を投げる。
「大変だ。」思うところがあるのか、ハクはうつむく。
「…わかった。すぐに行くから。そそうのないようにおしよ。」

 満月の明かりが、薄暗いオフィスを照らし出す。
「どうだい。ここでひとつ卒業試験といこうじゃないか。あの仲の悪いお二人をなんとか諌めておいで。その程度の事もできなけりゃ、アタシの弟子とはいえないねえ。」誓約書を片手で持ち、もう片方の手のひらを打つ。ぽん。と、軽い音がした。
 その程度。と湯婆々は言ったが、仲の悪い神同士の仲裁に入るなど、一介の魔女、魔法使い風情に易々とこなせるものではない。『無理難題』そう言っていいだろう。
「そうすれば、お前はあの娘に自由に会いに行けるようになるだろう。」
 それまでは、暗に直接口に出さなかった言葉を、今度ははっきりと口に出した。どうやらようやくその気になったらしい。だが、この課題をクリアできなければ…。契約書は再履行となり、当分ハクは油屋を出ることはできなくなる。湯婆々としては、まさに願ってもないことだった。
「では。行って参ります。」湯婆々を一瞥すると、坊を降ろし、ハクは軽やかに身を翻し、部屋から出て行った。
「そうそう、お前はやはり義理固い、いいコだね。」瞳の奥が不気味に光る。
 一時は捨て時かとも思った。白い竜。だが、予想以上の能力者だった事に気づいたのは、娘。センが来てからだった。生命力。生きようとする鮮やかなまでの力が、目に見えて違っている。恐らくは自分自身を取り戻したのだろう。だが、そんな事はどうでも良かった。
「婆婆。ハクは行っちゃうの?」先ほどまで、一言もしゃべろうとしなかった坊が心配そうに湯婆々を覗き込む。
「何。行かせはしないさ。」
 そう、今はまだ。この子が、一人前になるまでは。中継ぎが必要だ。我が身さえも、永遠では無いのだから。愛おしそうに、湯婆々は坊の髪を撫ぜた。
 実際、センの油屋に与えた影響は大きい。ハクしかり、この坊でさえ。信じて、成す事を、あの小さな娘はやってのけたのだ。そして、湯婆々も気づいてはいなかったが、変化は、僅かではあったが、湯婆々自身にも起きていたのだ。

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