乾杯とは「杯を乾かす」と書く(2)

 ハクが玄関まで行くと、既に人垣ができており、肝心の騒ぎの大元である二柱の神の姿も見えないような有様だった。しかし・・・。怒声だけは、はっきりと聞こえてくる。だが、それは、もはや言葉ではなく、恐らく声を発している本人同士であっても意味まではわかっていないであろう。
「お通し下さい!お通し下さい!」客の波をすり抜け、ハクが核心に近づくと、こなたアカガミ。鹿の頭をもち、人の体をとる赤毛の神が。かなたクロカミ 。アカガミと良く似ているが、頭は牛。つややかな黒い短毛の神。どちらも、鍛えあげられた肉体で、もはや激突は必至といった様子。そこを、哀れにも父役、兄役がそれぞれアカガミ、クロカミを取りおさえ、仲裁のつもりか、わって入った青蛙がいまにもつぶされそうで、何とも痛々しい。 
「ハク様あ!」人垣にハクの姿を見つけた青蛙が泣きそうな声をあげる。
 一瞬、二柱の神は気をとられ、揃ってハクの方へ向き直った。べしゃり。と嫌な音をたてて、青蛙が床に叩きつけられた。だが、すぐに立ちあがり、勢い良く飛び跳ねて、逃げるように人込みにまぎれむ。そこをつかまえ、ハクはひとこと耳うちした。
 我にかえったアカガミとクロカミは再び向き合い、まさに組み合いに・・・。なろうとした刹那。今度わって入ったのはハクだった。右手にアカガミの腕を、左手でクロカミの腕を掴んでいる。ハクは背の高い若者ではあったが、一見して剛の者にはおよそ見えない。アカガミもクロカミも容易に戒めを解こうと腕をふりあげようとした・・・が。片腕に掴まれているだけの腕がぴくりとも動かない。父役、兄役を振りほどき、足に力を込め全身で体重を乗せてみる。それでもぴくりともしなかった。さらに、ハクの額にはいささかの汗もにじまず、雅やかな表情を少しもくずしてはいない。そして、かわるがわる、アカガミとクロカミを見やった。まっすぐな、澄んだ瞳。山奥の誰も知らない湖の湖面のように、凪いでいる。
 毒気を抜かれた隙をついて、すかさずハクは二柱の神の前へ、軽やかな見のこなしでひざまづいた。
「名のりもあげず、ご無礼。申し訳ございません。私は、この湯屋にて帳場をあずからせていただいております、ハクにございます。北の地にありて、並び立たぬお二方をはちあわせた咎、この身をもって、いかようにもお受けいたします。」
 朗々とした。よく通る声であった。辺りに、緊張と静寂が張りつめる。
「ですが、その前に。」視線を流すと、さっと人垣が割れ、道ができた。先にあるのは大小の風呂。先導の青蛙が繰り返し飛び跳ねている。
「まずは、長旅の疲れを癒しくださりますよう。」湯女に蛙がそれぞれにつき、返答の隙も与えられず、二柱の神は、連れていかれた。

 一難が去ったが、ハクは気をゆるめず、父役を呼び、広間に宴の席を設けるよう指示を出し、兄役へは釜爺の元へ使いをやり、たっぷりと薬湯をふるまうよう手配した。
 その一部始終を、湯婆々は坊をともなって見物していた。
「婆婆。ハク、すごいねえ。あんなにすごい剣幕だったのに、おさめちゃったよ。」
 坊は素直に関心している。
「何、この場を取り繕っただけさ。アカガミとクロカミが湯を出たら、咎ってやつをうけなけりゃならない。」湯婆々は少し悔しそうに、そして、ほんの少しだけ弟子の成長を喜ぶ師匠の顔になっていた。
「坊。おつかいに…行ってもらえるかい?」
「いいよ!…でも、ハク、大丈夫かなあ。坊がいない間に、殺されちゃったりしない?」「そう、だから…ね急いで。」
 湯婆々が耳打する。坊の顔がぱあっと明るくなった。
「うん!すぐに帰ってくるね!…でも、婆婆。ハクに何かあったら、一生口聞かないからね。」意気揚々と、坊は玄関を飛び出していった。


 広間に、宴の用意がされている。上座に並んで、席が二つ。そして、床の間には一斗樽が積み上げられ、両手でなければ支えきれないほどの朱塗りの杯が三つ。

 アカガミとクロカミが出した条件はひとつ。双方を相手に酒の飲み比べをする事。ハクが杯を乾し、アカガミが乾す。また、ハクが飲み、今度はクロカミが飲む。一対二。どう考えてもハクに勝ち目は無い。ましてや、アカガミもクロカミも名うてのうわばみである。一対一でさえ、ハクに勝ち目のあろう筈が無い。そして、ハクが賭けるのは命である。
「本日は大変ご無礼を致しました。私がこの湯屋の主。湯婆々にございます。お酒の他に、食べ物も沢山ご用意させていただきました。お二方におかれましてはごゆるりと、おくつろぎ下さいますよう…。」うやうやしく湯婆々が挨拶をすると、居住まいを正したハクが現れ、アカガミとクロカミの向かいに正座した。それぞれに、杯が配られ、なみなみと、神酒が注がれた。まず飲み乾すのはアカガミだ。つい。と杯を傾けると、一息に飲み乾した。広間に集まった者達から歓声がもれる。そして、ハクがゆっくりと杯を乾していく。一杯目は難なく飲み、今度はクロカミが。アカガミ、ハク、クロカミ、そして、再びハク、と、それぞれが飲み乾すたびに、どよめきと歓声があがり、いつしか周囲も杯を交わし始め、広間は大宴会の坩堝と化した。やんやのどよめきの中、ハクは一向、崩れる気配が無い。既に三斗は空いている。いかな神といえど、正気でいられる量では無かった。
 反して、先に倒れたのはアカガミだった。まだ飲める。飲めると杯を押し上げるが、どうやらそれは、夢の中での事らしい。杯を胸に抱き、大きな音をたて、倒れると、そのまま大いびきをかいて、眠ってしまった。
 ハクも、顔を上気させている。視線は定まっているが、顔が染まるのは制御できないようだ。クロカミの表情は変わらない。
 もしや、このまま…。その場に居合わせた誰もがそう思った。体の大きさからいって、もうすでに、体内におさまりきれない量の酒を消費している。
 ハクの杯をもつ手が、一瞬揺らいだ。が、すぐに、支え直し、飲み乾した。あと一杯はとてももつまい。これまでか。…と。だが、クロカミは注がれる酒を辞した。満足そうに微笑むと、アカガミ同様、ばったりと倒れこみ、そのまま寝息をたてはじめた。
 一瞬、静まり返ると、歓声があがった。ハクは二柱の神の為に床を用意させ、皆の賛辞もそこそこに、いよいよ盛り上がる宴の間をあとにした。

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