乾杯とは「杯を乾かす」と書く(3)

 ハクはそのまま、最上階の湯婆々の元まで、ふらつきながらもたどりついた。
「さあ、約束だ。」ハクに背を向けたまま、湯婆々が答える。
「お前、本当は半分も飲んでいなかったね。」
 ぎくりとして、一瞬ハクは身をすくめた。
「アカガミとクロカミがそれを知ったらどうするかねえ。」
 背を、向けているので、ハクからは湯婆々の表情までは見る事ができない。
 ハクは既に限界に近かった。ある程度は術で気化させながら飲んだとはいえ、かなりの量を飲んでいる。睡魔に耐えるのが精一杯で、すでに足はすくみ、頭はふらふらしている。膝をつき、それでも上体を起こし、更に問い掛ける。
「約束を…。」
 そこが限界だった。視界が歪み、ハクはそのまま倒れふした。
「婆婆!!」ちょうど戻って来た坊が倒れるハクを目撃し、叫ぶ。
「許さないって言ったのに!」
 あわてて湯婆々は振り向いて、言った。
「何。眠っているだけだよ。坊。お使いはちゃんとできたかい?」
「うん!」
 安心して答えると、背後の少女を導いた。


 ひどいノドの乾きと頭痛とで、ハクは目を覚ました。一瞬。自分がどこにいるのかもわからず、見慣れぬ天井に驚き。そして、何より、自分の眠っている状況に驚いた。
「ち…!千尋っ!?」
 ハクが頭を載せてたのは千尋の膝の上。ありていに言えば、ハクは千尋に膝枕されていたわけだ。あわてて跳ねのき、膝を立て、腰をついた。
「あー起きたー。…良かったあ。ハク、ゆすっても目、覚まさないから。息苦しそうだったし、心配しちゃったよ。」屈託無く、笑うのはまぎれもなく千尋だった。
 頭がズキズキした。夢かもしれない…。
「っつ…。」
 激痛の走る頭を押さえる。
「どうしよう。お水飲む?」
 盆に載せてある水差しから、グラスに水を注ぎ、ハクに手渡す。ハクは息もつかず。たて続けに3杯あおると、深呼吸し、再び、確かめるように千尋を見る。
「いつ、ここへ?」
「坊が、迎えに来てくれて。」
 夜は、まだ明けておらず、どこへ行ったのか周囲には湯婆々も、坊の気配も無い。…と、いうことにハクはすぐ気づき、何だかいたたまれなくなって、千尋に背を向けた。
「すまない。私は、どうもそなたに…何か迷惑をかけたのでは無いか?」
「大丈夫だよー。ウチのお父さんも、よく酔っ払って寝ちゃうの。でね。私がいるのに、お母さんに甘えるんだよ。もーラブラブで見てられないくらい。」
「らぶらぶ…?」安心したのか、千尋に向き直り、真っ直ぐに見つめ直す。
「というのは何だ?」
「えっ!?」ハッとなって、千尋の頬は見る間に赤くなった。
 うろたえる千尋の様子を見て、何を思ったのか、ハクは再びあやまる。
「き、聞いてはマズい事だったのだな?すまない。千尋を…困らせるつもりでは無かった。」
「違う!違う!違う!!そうじゃなくて。」
 月明かりが二人を照らしていた。静寂と、どこからか、電車の走る音がする。
「そうだ、あまり驚いたので、言うのを忘れていた。良かった。千尋。また、会えて…うれしい。」ハクの左手が、千尋の頬に触れる。そこにいる。という事実を確かめる為に。
 慈しむ指先が、軽く、唇に触れた。びっくりして、今度は千尋が身を引いた。
「そ!そう!こっ、こんなカンジ。こーゆーのが。」
「らぶらぶ?」
 ぶんぶんと千尋が首をたてにふった。
「そうか…。」ものを考える時のくせなのか、ハクの指はハク自身の唇のところに。ちなみに左手である。
 もしや、間接キスになるのでは…。と千尋はうろたえたが、上手く説明する自信が無かったので黙っている事にした。間接キスの説明をするという事は当然、キスの意味も教えねばならない・・・。
「いいものだな。」と微笑むハクに、千尋はもはやどう返していいのやらわからなかった。頭の上に心臓があるのではないだろうか。というくらい、鼓動は激しい。このままではオーバーヒートしてしまうかもしれない。
「そうだ。湯婆々を探さないと。」唐突に、ハクは立ち上がり、千尋の心臓はようやく落ち着きを取り戻した。
 そこへ、ちょうど、坊をともなって湯婆々が戻って来た。宴会はどうやら先ほどまで続いていたらしく、明日の仕事にさしつかえる。と、怒鳴り散らして、おひらきにしてきたばかりだったということだった。
「いい夢が、見れたようだね。」
 にやにやしながら、湯婆々がからかう。
「まったく、こっちはもうヘトヘトだよ。」よっこらせ。と。椅子を引き寄せ、腰かけた。膝の上に坊を載せている。
 「さあて、ようやく、あんたは自由になった。ハク。いや、正しい方の名前で呼ぶべきなのかね。まあ、いい。」この契約書は、お前のモノだ。と言って、丸めて筒状になった紙を渡す。
 手をかけ、破こうとするハクを、湯婆々が一喝した。
「すまない。少し、時間をおくれ。私はこれから。ここで眠る。そして、お前と…セン。坊に、聞いてもらわなきゃならない事がある。」
「何故?」ハクが問うと、苦笑して湯婆々が答えた。
「私に、お前を拘束していく力はもう無い。だから、そう…これは、『お願い』だ。聞きたくなければそれもいいだろう。だが、これだけは言っておく。私はお前達を見込んだんだ。ハク。そして、セン。」
 いつになく、真剣な面持ちの湯婆々に気押され、ハクは、「わかった。」とだけ答えた。

 …坊を膝から降ろし、椅子に深く腰をかけると。湯婆々は目を閉じた。既に夜明けに差し掛かり、ガラス張りの天井から、うっすらと薄明の明かりが差す。
 寝入ったか。と思うやいなや、ぱちりと目を覚まし、軽く頭をぶんぶんと(といっても大きな頭なので、勢いはついているが)ふった。
「久しぶりだね。千尋。」
 微笑んだその人は。
「おばあちゃん…。」
 さっきまでは確かに湯婆々だった筈。それが。いつのまにか。
「ハクも、良くやったね。神様二人相手にあそこまでできれば上等だ。あんたも確かに、元は川の主で、はしくれではあるんだろうが。…湯婆々が見込んだわけだ。」
「銭婆…?」けげんそうにハクが尋ねる。
「そう。ようやくあの子が体をあけてくれたからね。」
「体?」坊もかなり驚いている様子だ。
「私とあの子はひとつの体を交互に使ってるんだよ。まあ、元は私の体だからね。私はあの子が起きている時でも、私が目覚めてさえいれば、見たり聞いたりする事はできる。でも、あの子は眠っちまうともう、ダメなのさ。だから、あの子が眠っている間起きた事は紙に書いて伝えるしかないんだが、あの子が起きていれば、そう、この間みたいに、式神であの子と離す事もできる。」
 驚きのあまり立ちすくむ3人に、銭婆は、微笑んで言った。まあ、3人ともお座り。今お茶を入れてあげよう。…長い話になるからね。

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