時の止まった部屋(2)

「小僧、お前のせいで、カズラギは倒れた。全部お前のせいだ、私の平安を、お前が…生まれたから!!」
 坊に照準を合わせるように、ヌシが向き直る。だが、思い直して構えを解いた。
「いかん、つい我を忘れて余興を台無しにするところであった。」ひとりごとのように言い、足元に横たわる龍のたてがみを掴み、持ち上げた。
「こいつはお前の仲間だろう。」
「ハクを…どうする気だ!」
「ほう、随分となついているようだ。…だが。」
 そう言って、逆鱗を、龍の急所とも言える部分を力任せにむしりとり、坊の方へ放り投げる。条件反射で鱗をキャッチすると、痛みに悲鳴をあげた龍が、鱗の描く軌跡を目で追う。
 坊は、逆鱗を手に持っている。ハクは、痛みで我を忘れていた。逆鱗を剥がした者、それは逆鱗を持つ者。いつものハクであれば有りえない。思考を、痛みがくらませた。
 怒れる龍が、逆鱗を持つ者を襲う。それこそが、ヌシの望みであった。思い慕い合う者同士が傷つけ合う。これ以上の愉悦があろうか。しょせん、情愛などまやかしのもの。確かめるように、ヌシは楽しそうに見守る。
 そして、それは千尋にとっては悪夢以外の何物でもなかった。ハクと坊が戦っている。実力の差からいって、坊が一方的に不利だった。しかし、始めはハク相手で戦いあぐねていた坊も、次第に本腰をいれているのがわかった。手負いの龍へためらいなく攻撃する。
「やめて…、やめて!もうやめて!」
 千尋の叫びが、互いの手を止めた。
「セン…。」
 せっかくの展開に水をさされて、ヌシは不愉快だった、たかだか、人間の娘に。
「娘、邪魔するとお前も殺すぞ。」
 狂ったように、衝撃を放つが、どれも全く別の方向へ飛び、千尋達にかすりもしない。
 千尋が、ヌシの前に出た。
「どうして、…そんなひどい事をするんですか?」千尋は、泣いていた。

「ひどい?わたしの大切な物を奪いに来たお前達に対して、当然のむくいであろうが。」
「確かに、私達も失礼だったと思います。黙って入って、勝手な事をしました。でも、だからといって、こんな風に傷つけ合わせるなんて。」
「娘、お前は、私の嫌いな愛だの情けだのを説こうというのか。」
「…そんなつもりでは。」ありませんという言葉をヌシが制した。
「いや、違わんな、相手を思いやれだの、いたわれだの、片腹痛い。なんの事はない、自分が愛されたいから、相手にこびているにすぎんのではないか。それを愛だとか、綺麗な言葉におきかえて、自己満足して悦に入る。反吐が出るわ。」
「ひど…。」千尋は泣きだしそうな衝動を、口を両手で覆い、こらえる、瞳には涙が溜まっていた。
「私は、私の望むようにしてきた。私の元を出ていくと言えば、その身は置いて行かせただけだ。心などいらぬ。その身で私を楽しませればそれで良い。自分の子供よ、半身よと言われても、情愛などわかぬわ!私の居場所を奪うだけの、脆弱でずうずうしい存在!それがお前だ。」
 履き捨てて、坊を一瞥する瞳は、ゾっとするほど冷淡だった。
「その龍とて、もはや私の言うがまま。さあ、戻れ、こちらへ来い!」
 白龍が身を翻し、ヌシの足元に戻った。
「ハク…どうして…。」
「驚く事は無い。真実の名を奪っただけよ。」
 白龍を足蹴にしたまま、ヌシが言う。
「本当に愚かな生き物だ。娘、お前の身と引き換えに、この龍は口を割ったのだぞ。」
「嘘…そんな、どうやって!」
「何、好色なヒヒをあおってやっただけのこと、お前の純潔と、自分の名前、こいつは天秤にかけたのだ。結局、その爪でお前を引き裂く事になるのだから、まったく意味のない事だ。」
 千尋は驚愕した。先ほど、見まわれた体験が、嫌悪感と共によみがえる。では、あれは…。
「じゃあ、ヒコさんが、私を助けてくれたのは…。」
「もし、この龍が口を割らねば、どうなっていたかわからぬな。ヒコを動かしたのは私。目的は果たした、第2段階に進まねばならぬので、お前は無事逃げおおせた。それだけの事だ。」
 心の中で、ハクに助けてを求めていた。そして、真実、ハクは千尋を助けていたのだ。真実の、名を明かすという行為で。そして、今、こうして操られている…、血にまみれ鱗を裂かれて。

 結局、足手まといになってしまっている。なんて無力な存在。千尋は、よろよろとその場に座りこんだ。
「おやおや、言葉も無いか。では…仕上げだ。愚かな龍よ、その身と引き換えに助けた娘を、今度はその爪で、牙で引き裂くがよいわ!」白い龍が、少女に襲いかかる。

 牙が、爪が、千尋の身を裂こうとした刹那、龍の、動きが止まった。制御のきかなくなった、あばれ馬のような情動を必死でかき消そうとあがいている。爪からは血がほとばしり、牙を止めようと、自身の体に噛みつく。見えない何かと戦うように、のたうちまわる龍の頭を、少女がその力すべてをかけて、抱きしめた。激しく頭を揺さぶられ、少女の体は木の葉のようにもてあそばれる。
 それでも、千尋は必死だった。ハクを助けたい。今、千尋を支配しているのは、その一点のみだった。強く、抱きしめる。ツノを持ち、頭を抱え込むようにして、押さえつけるように。だが、龍は勢いよく高く舞い上がり、自分を押さえつけていた、千尋の体を振りほどいた。千尋の体が、床に叩きつけられる。
 一瞬、千尋は呼吸を失った。

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