時の止まった部屋(3)

 口の中が切れてしまったようで、錆びた味が広がる。体中が痛い。でも、立ち上がらないわけにはいかなかった。
「ハク…。」思いをこめてその名を呼ぶ。
 白い竜は、視線を定めず、のたうちまわる。壁に、床に、傷ついたその身がぶち当たり、血飛沫がとぶ。傷口が目に見えてひどくなっていくのがわかった。
 もう、ニガダンゴは無い。千尋は、自分自身の力でハクを止める他に術がなかった。
 ハクの身の内で戦う二律背反な感情に決着が着いたのか、動きが停止し、今度は一転、千尋を見つめる。威嚇するような、蛇のような鳴き声。
 
 千尋は、真っ直ぐ、竜と相対した。それはまるで一枚の絵のようで、巫女乙女の竜退治の光景のようであった。
 千尋の瞳に涙は無い。ただ、まっすぐ、竜の翡翠の瞳と向き合う。その視線は凛として、神聖。髪のひとすじにまで神経が行き届き、張り詰めている。

 一方、竜の瞳が、次第に澄んでいく。先ほどまでの、痛みに我を忘れた動きでは無い。鬣から、鱗の一枚まで、気が充実し、全身で乙女と向き合っている。まさに一触触発の態で、乙女と竜の間に、奇妙な静寂が流れた。

 静寂の中、不思議と千尋の心は澄んでいた。何故だろう。真実の名を奪われて、操られているはずのハクなのに、瞳は寸分変わらない。いつもどおりのハクのように見える。いつもの、やさしい瞳。からめてとられ、とろけそうな…。心の奥底まで見透かされてしまいそうな、あたたかだけれども激しいものを帯びた視線。

 白竜もまた、乙女に魅入られていた。魔や、異形を捕らえて離さない。純粋であるがゆえの美が、そこにはあった。
 ふつふつとわきあがる感情。いとおしいと思う反面、奪いたいという激しい感情を突き動かす。誘惑。

 千尋とハクは向かい合い、相対しながらも、魂の素の部分で触れ合っていた。もはや、自分が何者なのか、ここがどこなのか。わからない。名さえも忘れて、ただ惹かれ合う、ふたつの魂が、そこにはあった。

 静寂を打ち破ったのはヌシだった。

「何をしている!娘はそこだ。早く、その爪で引き裂くがいい!」

 叫びは二人に届かない。

「ええい!」たまりかねて、掌中で真空の渦を作り出す。

 対峙する二人と、ヌシの間に坊が割って入る。無言で、ヌシを睨みつけた。

「ほお、一人前に…。」

 そう言うヌシの表情はどこか愉快そうだった。

「二人の邪魔はさせない。」

 小さな体で、それでも、坊は約束を果たす為に、センを守ると、誓った、ハクとの約束ゆえに、命をかけようとしていた。

 その時だった。坊は後ろから羽交い絞めにされた。まったく気配を感じさせずに近づいたのは、気を失っているはずのヒコだった。

「何を…!?」
「すまぬ。」ぼそりとつぶやき、そのままヌシに向かう。

「よくやった、その小僧を押さえていろ。」
 ヌシは再び二人に向かい、衝撃を練り始める。
 坊は、ヒコによって阻まれた。
「そんな!どうして!」
「私の主はヌシ様だ。…初めから。」
 押し殺すように、ヒコがつぶやく。
「馬鹿め。今まで、誰にも気づかれていないとでも思っていたのか。侵入者に、何の手もほどこさぬほど、備前屋は甘いところではないぞ。やすやすと入れたはヒコの報告あっての事。気づいておらんとは、まったく、おめでたいやつらぞ。」
 声には出さない。…が、あからさまな嘲笑。

 はじめこそ、油屋を悪く言うようなヤツだと思っていた。でも、信用できると、思い初めていたのに…。坊が唇を噛む。

「そこで見ていろ、己の無力さを。」

 再び、無防備な二人を真空の衝撃が襲おうとした。

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